命を与えるのは“霊”である。

2006年08月30日
ヨハネ福音書6:60-69 1 ヨハネ福音書6章の前後の流れ  何回か、使徒書の中から、「エフェソの信徒への手紙」から、ご一緒に考えてきましたが、今日は、福音書から学びたいと思います。  ヨハネによる福音書の6章の流れをふり返ってみますと、まず、6章1節〜15節は、ガリラヤ湖のほとりで、主イエスが5千人の人々にパンと魚を分け与えたという奇跡物語から始まっています。  主イエスの所に大勢の群衆が押し迫ってきました。主イエスは、大勢の群衆が御自分の方へ来るのをごらんになって、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられました。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べても、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。2百デナリオンとは莫大な金額です。  そこで、さらに弟子のアンデレが、イエスに言いました。 「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。だけどこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」  主イエスは、人々を草の上に座らせ、主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々にそのパンを分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。人々が満腹したとき、主イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言って、食べ残ったパン屑を集めさせました。すると、残ったパンの屑が、12の籠にいっぱいになりました。そこに座っていた男たちの数はおよそ5千人であったと記されています。主イエスが行われたこの奇跡を見た人々は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者だ」と言いました。  この奇跡の出来事があって後、ますます大勢の群衆が主イエスの所に押し寄せて来たので、主イエスはひとり山に退かれ、また、湖の向側に移動されました。  しかし、それでも大勢の群衆が追いついてきました。そこで主イエスは言われました。  「あなたがたがわたしを捜しているのは、あの奇跡をみて、そのほんとうの意味がわかってわたしのところに押し寄せて来たのではない。ただ、パンを食べて満腹したからに過ぎないのだ。あなたがたが求めているような朽ちる食べ物、食べてもすぐにお腹が減ってしまうようなパンではなく、いつまでもなくならない『永遠の命』に至る食べ物を求めてなさい。」  そこで群衆の中の一人が、  「それでは、神が求めておられる行いをするためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。主イエスは答えて言われました。 「神がお遣わしになった者を信じること、それこそが神が求めておられる行いです。」  そこで、彼らは言いました。「それでは、わたしたちがあなたを見て信じることができるように、どんな奇跡(しるし)を行ってくださいるのですか、私たちのためにどんなことをしてくださるのですか。」  「わたしたちの先祖は、モーセに導かれて40年間、シナイの荒れ野で、神から試練を受けました。その途中で食べ物に困り、モーセに苦情を訴えた時に、天からマンナというパンが降ってきて、これを食べました。(出エジプト記16:31)」  すると、主イエスは言われました。  「モーセが、天からのパンをあなたがたの先祖に与えたのではない。わたしの父である神が天からのまことのパンをお与えになったのだ。神のパンは、天から降って来て、世の人々に命を与えるものなのだ。」  そこで、群衆は主イエスに言いました。「主よ、そんなパンがあるのでしたら、いつもわたしたちにください。」  すると、主イエスは、  「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。わたしを信じる者は決して渇くこともない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方、すなわち神の御心を行うため来たのだ。」  ユダヤ人の群衆は、主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、このことで心の中でそれぞれつぶやき始めました。  「この人は、ナザレの大工ヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父親も母親も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのだろうか。」  さらに、主イエスは、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」  それで、ユダヤ人たちは、  「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせるなんてことができるのか」と、互いに激しく議論し始めました。  さらに、主イエスは言われました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、また、わたしが父である神によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」  私たちにはわかります。それは、主イエスが「聖餐」のことを言っておられるのです。私たちが聖餐式の中で、パンとぶどう酒を受けます。聖霊とみ言葉によって聖別されたパンとぶどう酒を、私たちが信仰をもって受ける時、それは主イエスの肉を食べ、主イエスの血を飲んでいると言います。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」私たちは、このことによって養われ、強められ、キリストが共にいてくださることを確信します。  ところが、キリストを受け入れない人、信仰を持たない人からすると、そんなことは「信じられない」馬鹿馬鹿しい行いになってしまいます。 2 弟子たちのつまずき  そして、今日の福音書に続きます。  主イエスに付いて歩いていた弟子たちが言いました。  「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」                          (60節)  声に出して、言わない人もいました。主イエスは言われました。 「あなたがたはこのことにつまずくのか。」(61節)  それは、主イエスが「わたしはパンである」と言い、「わたしの肉を食べなさい」と言われたそのことを指しています。  そして、結果的には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)とあります。  そして、最後には、いつも最も近くにいる12人の弟子たちにも、主イエスは言われました。  「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と。  私たちは、イエス・キリストという方に、理想の人間の姿を見ます。どんな難しい問題でも、主イエスが、私たちの前に立ち、話を聞いてくださったら、すぐに解決すると思っています。キリスト教の話は難しい、だけど、主イエスが、私たちの前にたち、直接話して下さると、すぐにわかるに違いない、生の主イエスから直接お話を聴くとよく理解できるに違いないと思っています。  しかし、今日のヨハネの福音書によりますと、全然そうではなかったことがわかります。弟子たちでさえも、主イエスの教えにつまずいているのです。  「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、主イエスに「あなたがたはこのことにつまずくのか」と言わせ、そして、結果的に、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはや主イエスと行動を共にしなくなった」のです。そして、主イエスは最後に、12人の弟子たちにも、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。  弟子たちの兄貴分であるシモン・ペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」答えましたけれども、そのペトロは、主イエスが捕らえられた時、大祭司の邸宅の中庭で、「お前もあのイエスと一緒にいたではないか」と言われた時、「あんな人は知らない」と言い、あのイエスの弟子だったと言われ、「違う」と、3回も否定しました。そして、実際には、12人の弟子たちの一人、イスカリオテのユダは、主イエスを裏切り、脱落してしまいました。 3 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。  主イエスの悲しい思い、その時の思いが伝わってくるような気がします。  では、どこに問題があったのでしょう。主イエスのこの教えを聞いて、頭を振りながら去って行った弟子たちと、つまずきながらでも、さらに主イエスについて行った人、「永遠の生命」を手に入れた人とは、どこがどのように違ったのでしょうか。そのわかれ目はどこにあるのでしょうか。  先ほどの、主イエスと群衆の会話のやりとりを振り返ってみますと、言っていることの内容が、主イエスと群衆では、あきらかにすれ違っていることがわかります。  群衆は、あくまでも食べて満腹するパンがほしい、それがもらえるならばと、どこまででも付いて歩き、追いかけてきます。彼らには、その他に別のパンがあることなど想像もできません。  主イエスは、そのような、カビが生えたり、おいておくと腐ってくるような朽ちる食べ物ではなく、食べてもそのすぐ後からお腹が空いてくるようなパンではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至るパンを求めなさいと教えておられます。  群衆は、「肉体を養うパン」を求め、それ以外のものを知りません。しかし、主イエスは、「魂を養うパン」「霊のパン」というものがあることを教え、肉のパンよりも霊のパンが大切なのだと言われます。  群衆の誰でも、モーセによって与えられたマンナというパンが与えられた歴史的な出来事について知っています。当時のユダヤ人、この群衆の先祖たちは、ほんとうに現実問題として、死にそうなほどお腹を減らしていました。荒れ野の真ん中で何も食べる物がない時に、モーセに訴え、そして、モーセの願いが聞き届けられて、マンナが与えられました。奇跡が起こったのです。  彼らは言い伝えられた奇跡の現象にだけ目が行き、その向こうにある、神の憐れみや愛や恵みというものに心が向きません。むしろ、モーセの時のような奇跡を見せてほしいと主イエスに迫ります。  ところが、主イエスの思いは、モーセの時代のマンナ以上の食べ物、神から与えられるパンがあると言われるのです。そして、ご自分を指さして、「わたしがパンだ、まことのパン、世の人々に命を与えるパンだ」それが今与えられていると言います。  ここにも、次元が違っている、すれ違いの問答があります。  すると、群衆は、「そんなパンがあるなら、いつもわたしたちに下さい」と、主イエスが与えようとするパンを欲しがります。  そこで、主イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。わたしを信じる者は決して渇くこともない」と答えられました。  ここで、パンを求める者と、パンを与えようとする者の意見が初めて交わり、一致したのですが、やはり、彼らには、ほんとうの意味がわかりません。  「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」(63節)  私たちには、肉の食べ物としてのパンについては、これは誰でも理解できます。しかし、霊の食べ物と言われると、なかなか理解することができません。心が養われる、魂に満ちあふれる喜びが与えられる、さらに、信仰が強められる、それは、霊によって与えられるものです。霊は、神によって与えられます。  そして、もっと具体的のいえば、神が遣わされた主イエス・キリストを受け入れることであり、主イエス・キリストにすべてを委ね、主イエス・キリストと共にあることであり、目に見える姿では、主イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むことによって表されます。  私たちが求めているものと、主イエスが与えようとしておられるものとすれ違っていないでしょうか。   〔2006年8月27日 聖霊降臨後第12主日(B-16)説教〕