神の掟と人間の言い伝え
2006年09月07日
マルコによる福音書7:1〜8、14〜15、21〜23
1 ファリサイ派のいいがかり
主イエスの時代、エルサレムはユダヤ教の本山であり、そこには神殿があり、ファリサイ派や律法学者、サドカイ派、熱心党や、祭司や宗教的指導者たちが多く集まっているところであり、それは、主イエスに敵対する者たちの本拠地でありました。
このエルサレムから、ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、イエスのもとに集まってきました。主イエスや弟子たちの言動に、少しでも不審なところがあれば訴えようとして、見張っていたに違いありません。
そこで、主イエスの弟子たちの中の何人かが、洗わない手、つまり汚れた手で食事をしているのを見つけました。
そして、主イエスに言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、どうして汚れた手で食事をするのですか」と。
現在の私たちの社会では、食事前には手を洗うというのは常識になっています。小さい子どもの頃から、そのようにしつけられ、習慣になっている人もいます。私たちが食事前に手を洗うというのは、衛生的な面や医学的な面から言われています。いわゆる手についたばい菌による病気の感染を防ぐというところから、手を清潔にするとか、うがいをするとかをすすめられています。
ところが、主イエスの時代に、ファリサイ派や律法学者が見つけて問題にし非難した理由は、そのような衛生的な考えなど全くありませんでした。3節以下に、説明されていますように、
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんありました。」
その理由は、宗教的な理由から来るものでした。異教徒、罪人は汚れているという差別的な考えが強く、異教徒、罪人が触ったもの、彼らが神に供えたもの、持っていたものなどに、どこかで触れているかも知れない、それが手から口に入ると、自分自身が汚れると言い伝えられ、不浄を洗い落とすということを固く守っていました。 宗教的な汚れや儀式的な汚れを恐れ、「念入りに手を洗ってからでないと食事をしない、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど」と、どんどんとエスカレートしていき、このような言い伝えを守る人が、正しい人、信仰深い人だと考えられていました。そして、それだけではなく、手を洗わない人を非難し、排斥しました。
主イエスに向かって発した非難「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、どうして汚れた手で食事をするのですか」という言葉は、単に手を洗わないということだけではなく、彼らの道徳性を疑い、生活の仕方や生き方そのものに言いがかりをつけていることがわかります。
2 神の掟と人間の言い伝え
これに対して主イエスは言われました。
「預言者イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見抜いて預言しているではないか。イザヤはこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
主イエスは、イザヤ書29:13から引用して語っておられます。
ユダヤ人は、口先で「神さま、神さま」と言って、いかにも神を敬っているかのようにふるまっているが、しかし、本心は、神の心、神の思いとは遠く離れて、自分勝手なことをしている。自分たちで勝手な解釈をし、言い伝えと称して勝手にそれを教え、守っている。神への信頼と服従が最も大事であるのに、そのような思いは全く持ち合わせず、口先だけで、うわべだけで、いかにも神を敬っているかのようにふるまっていると言われます。そして「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と、はっきりと彼らの偽善性を指摘しました。
神の掟と人間の言い伝えと、どちらがだいじなのか、と問われます。神の掟とは、神の律法です。神がお与えになった律法は、神の命令であり、神の御心です。ところが、ファリサイ派や律法学者は、自分たちの都合のいいようにそれを解釈し、水増しして、これを昔からの言い伝えと称して守ってきました。
神は、「わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない」と、神の唯一性、偶像崇拝の禁止をお命じになりました。それが、異教の神々や異教徒を不浄、汚れとし、手を洗うこと、食器を洗うことなどの忌むべき行為、禁じる行為への言い伝えとなり、それさえ守っていればよいというように、神の大きな意志を、人間の言い伝えという小さな行為にすり替えてしまいました。
3 ファリサイ派、律法学者の偽善
当時のユダヤ人の言い伝えを守る守り方を示す例があります。
主イエスが指摘された例です。
「モーセの十戒」の第五戒に、『父と母を敬え』(出エジプト20:12)と命じられています。また、出エジプト21:17、レビ20:9には、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも命じられています。
ところが、ユダヤ人の間で「コルバン」という言葉があって、その意味は、ヘブライ語で「神への供え物」という意味でした。
ここに何か美味しいものがあって、お父さんやお母さんがこれを欲しがります。モーセの掟によれば、「父と母を敬え」ですから、誰よりも先にお父さんやお母さんにこれを差し上げなければなりません。ところが何かの都合で、これを父母にはあげたくありません。そこで、この言い伝えがあって、「コルバン!」、つまり「神への供え物!」と言えば、その人は、もう父または母に対して何もしないで済むのだとされていました。神に対する義務と父母に対する義務では、どんな場合でも神に対する義務の方が優先されることは当然です。そこで、この神の掟とを、数学でいう公式に当てはめて答えを出すように、公式化してしまって、すべてのことをこのような公式に当てはめて解決しようとしました。そして、現実の生きた関係や問題、さらに矛盾に取り組む努力を放棄してしまいました。
このようにコルバンという、昔からの言い伝えによって、本来、父母に与えるはずのものを神にささげるように切り替えて父母への責任を免除されようとします。その内容は、神の名を借りて、人間の都合を優先させてしまい、神の言葉、神の命令をないがしろにしてしまいました。主イエスは、「これと同じようなことをたくさん行っている」と言われ、ユダヤ人の偽善をきびしく非難しました。(マルコ7:9-14)
このようにファリサイ人や律法学者たちは、神の戒めを骨抜きにし、人間の言い伝えを優先させてしまっていました。
私たちは、信仰生活を送る中で、いろいろな問題に直面します。いかに生きるべきか、いかにそれぞれの問題を解決すべきかと悩んでも、神は、命令を与え、戒めを与えて下さってはいますが、私たちの個々の問題、日常起こる細かい煩雑な課題や問題についてまで一つ一つに回答が用意されるわけではありません。
そこで、ラビと呼ばれる有名な律法学者の解釈や言葉が、代々言い伝えとして受け継がれ、おびただしい数の「人間の言い伝え」が生み出され、適用されていきました。そして、これさえ守っていればよいということになってしまいました。その結果、信仰生活は形式化し、固定化し、ほんとうの内容、命を失ってしまっていました。形さえ整えれば、あたかも内容があるかのように錯覚してしまっていました。
4 私たちの生き方
ファリサイ派や律法学者は、異教徒、罪人の罪や汚れは、手から口を通して、自分たちの中に入るものだと考えていました。だから食事の前には手を洗ったり、食器を洗ったり、いつも身辺を洗っていなければなりませんでした。そこに大きな傲慢がありました。自分たちは、清い、自分たちは汚れていない、そして自分たちは正しいとし、反対に、異邦人、罪人は汚れていて、滅びて当然の人たちだと決めつけていました。だから、外から彼らの汚れや罪が、自分たちの体の中に入ると決め込み、これを防ごうとしました。
主イエスは、群衆に言われました。(7:14、15)
「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
また、さらに、弟子たちにいわれました。(7:18-21)
「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。」「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」
人を汚すものは、外から人の中に入って、人を汚すものではない。かえって、人の中から出てくるものが、人を汚すのであると、主イエスは断言されます。
私たちは、神に従う者として、神のみ心、神の命令、神の掟の中で生きようとしています。そして、毎日の生活では、日ごと押し寄せてくる問題に直面します。私たちは、祈りの中で、神の回答を得ようと努めていますが、なかなかすぐには答えは出ません。言いかえれば、どんな問題にでもすぐ当てはまる公式はなく、うめきもだえながら生きるという姿の中で反対に神に答えていかねばならない存在です。ともすると、苦しみや悲しみや、悩みや恐れの原因を外に求め、外からくるものに責任を転嫁して、自分を納得させようとする思いが湧いてきます。多くの外から入ってくるものは、腹の中に入り、そして外に出される。それは人の心の中に入るのではない。
人間を損なうものは、外にあるのではなく、自分自身の中にあるのです。自分の中から出てくる、思いと言葉と行いによって、人を傷つけるだけではなく、自分自身をも粗末なものにしてしまいます。
私たちの汚れた心に、イエス・キリストを迎え入れることであり、汚れた口をもって、主イエスに対する信仰を告白すること、それが信仰生活をすることです。主イエス・キリストによって清くされること、それはイエス・キリストによって新しくされることです。
〔2006年9月3日 聖霊降臨後第13主日(B-17)説教〕