「エッファタ、開かれよ」
2006年09月10日
マルコによる福音書7:31−37
今日は、マルコによる福音書7:31〜37から、み言葉を聴きたいと思いますが、最初に、今日の旧約聖書から学んでおきたいと思います。
先ほど読んでいただいた今日の旧約聖書は、イザヤ書35章ですが、最初に、このイザヤ書の背景について、知っていただきたいと思います。
紀元前千年ごろ、イスラエルは、ダビデ王によってはじめて統一され、繁栄と安定がもたらされました。それまでは国とは言えない部族の集まりだったのですが、ここにダビデ王国が築かれました。その子ソロモン、さらに、紀元前922年、レハブアムが王位についた時、反乱が起こり、統一されていたイスラエル王国は、北のイスラエルと南のユダに分裂してしまいました。北イスラエルにもヤロブアムという王が立てられました。さらに北の方にはアッシリア、南の方にはエジプトという大国があり、その間で脅かされながら、次々と王が替わり、政治的にも、宗教的にもイスラエルは混乱期を迎えました。
紀元前739年ごろから、その当時の南ユダにおいて、預言活動を行ったのがイザヤでした。
神は、イスラエルを選び、預言者を立てられました。さらに、イスラエルを治めるために、ダビデとその子孫を王とし、神がイスラエルのほんとうの支配者であり、神がつねに共にいて下さることを示すために、エルサレムに神殿を建てさせました。
しかし、イスラエルの民は、神の律法を行おうとせず、エルサレムにおける宗教儀式は堕落し、王は神の意志に従って政治を行おうとはしませんでした。
神に召し出された預言者の職務は、このようなイスラエルの支配者、政治を行う者に対して警告を与え、エルサレムの堕落した宗教儀式を批判し、近隣の国々とのきびしい情勢の中で、王と政治的指導者の歩む道を正すことにありました。
しかし、北の方のアッシリアが強大な力を持ち、紀元前722年、サマリアまで攻め下り、ついに北イスラエルは滅亡しました。南のユダも切迫した状況に陥り、まさに、国家存亡の危機に直面した時、残された人々もなすすべなく、混乱に陥るばかりでした。
預言者イザヤは、そのような状況の中で、神の支配に信頼し、しっかりとした信仰に立って、人の知恵や力によってではなく、神の約束に信頼すべきであると説き続けました。
動乱の中にあって、そのような時代だからこそ、「静かな信頼」が唯一の歩む道であると、イザヤは確信していました。
「落ち着いて、静にしていなさい」(イザヤ7:4)
「信じる者は慌てることはない」(28:16)
と叫びました。
今日の旧約聖書の個所は、そのような預言者イザヤが預言する最後の言葉で、「イスラエルへの神の栄光の回復」が語られています。
神が直接力を発揮される時が来る。神がご自身の栄光を顕される時が来る。イスラエルに救いのみ手がさしのべられる。
「なおしばらくの時がたてば
レバノンは再び園となり
園は森林としても数えられる。
その日には、耳の聞こえない者が
書物に書かれている言葉をすら聞き取り
盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。」
(19:17〜19)
その時、荒れ果てた自然は回復し、耳の聞こえない者が聞こえるようになり、盲人は目が見えるようになる」と、耳や目に障害を持つ人々の回復が約束されています。そのような現象が神の栄光の回復の現れとして語られています。
さて、今日の福音書ですが、主イエスがなさったことを見た人たちは、すっかり驚いて、「この方のなさったことは、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言いました。
それは、主イエスがなさった奇跡を目で見た時の驚きを表しています。しかし、この言葉の中に、7百数十年昔に、預言者イザヤによって、預言された「神の栄光の回復」の場面を思い出させるものでした。
では、主イエスがなさったこととは、どのようなことだったのでしょうか。
ある時、人々が、耳が聞こえず舌の回らない人、一人の聾唖者を、主イエスのもとに連れて来ました。そして、その人の頭のに手を置いてくださるようにとお願いしました。
すると、主イエスは、耳が聞こえず舌の回らないこの人だけを群衆の中から誰もいない所に連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、主イエスの時代、日常会話に使われていたアラム語で、「開かれよ」「開け」という意味であると記されています。
すると、耳が聞こえず舌の回らないこの人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。
主イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、主イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めました。そして、すっかり驚いて言いました。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
聖書には、たくさんの奇跡物語があります。
私たちの側からしますと、病気が治った、目が見えるようになった、耳が聞こえるようになった、ものが言えるようになった、歩けるようになった、救われたのだ、助けられたのだ‥‥‥と、まず、そのことについて喜びます。確かに、目が見えない、耳が聞こえない、歩けない、さまざまな病気をかかえている、それは、つらいことです。具体的に、働くことができないことから貧困であり、人間関係が持てないなど、経済的にも社会的にも、それこそすべての不幸の原因はそこにあり、これさえ癒されればという気持ちになります。ですから、具体的な、目の前の、今、困っている、苦しんでいるその原因が取り除かれることが、すべてを解決することであり、そこから救われたいと一生懸命にそれを求めます。そして、それが救いのすべてだと考えてしまいます。
さて、それでは、主イエスがなさる奇跡について、主イエスは、私たちにどのように受け取ることを求めておられるでしょうか。
今日の福音書の記事には、主イエスによって癒していただいた耳が聞こえず舌が回らなかったこの人が、その後、どのようにしたか、どこへ行ったのか、どんな人生を送ったのかということは、何も触れていません。主イエスもその後何と言われたのかということも書かれていません。
この耳が聞こえず舌の回らなかったこの人は、確かに救われたのです。耳が聞こえるようになり、ものがしゃべれるようになりました。具体的に、いちばん不幸の根源だと思っていることが取り除かれ、問題は解決したのです。多分、家に飛んで帰って、家族一人一人の声を聴き、愛する人の声を聴き、鳥のさえずりを聞き、美しい音楽も聴いたかもしれません。しかし、反対に、聴きたくない言葉や音も耳に入ってきたに違いありません。そのために、今まで知らなかった不幸を負うことになったかもしれません。舌が回るようになって、しゃべり続けたことでしょう。しかし、しゃべらなくてもいいことや、悪口を言ってしまい、人間関係がまずくなって、今まで知らなかった不幸を負うことになったかもしれません。
ここで、注意したいことは、この奇跡の出来事を見た人たち、または、その話を聞いた人たちは、あの預言者イザヤの預言を思い出したということです。
この人は誰だ。この方は何者だ。そして、ここに起こっていることは何だ。
それは、預言者イザヤが、イスラエルに神の栄光の回復として預言した、その時に起こるであろう光景を思い出したのでした。
イザヤの預言の中心は、人の力に頼らず、物に頼らず、ただ神のみを信頼せよと言い続けました。それは、ほんとうの救いは、目先の、具体的に見えるような救いを求めるのではなく、神への信頼、すなわち、「心から信頼する」という人間一人一人の心の問題にあることが示されています。
主イエスは、「エファタ」「開かれよ」と言われました。
私たちの耳は、目と違って、いつも開いています。起きている時も寝ている時も、音や声が耳に入ってきています。しかし、それがすべて聞こえているわけではありません。耳は、いつも開かれていて、音や声は、耳に入ってきているのですが、私たちは聞いていないということがよくあります。
補聴器という機械を使って、音を聴いている人から、雑音も一緒に入ってきて聴きにくいと、困っておられるのを聞いたことがあります。人間の聴覚というのは、よくできていて、私たちの脳の働き、神経の働きによって、聴く音と聞かない音を、聞かなくてもよい音を、無意識のうちに選り分けています。そのことを意識して、聴こうと思ったり、聴きたくないと耳にフタをさせるのは、私たちが意識することであり、私たちの思いであり、私たちの心がそのようにさせるのです。
主イエスが、私たちに向かって、「エファタ」「開かれよ」と言われます。
神に向かって、私たちの心の耳が開かれること、イエス・キリストを見つめる心の目が開かれること、私たちが喜びにあふれて信仰を告白する口が開かれること、その時、神の栄光が回復されます。
神の声は、つねに耳に入って来ています。どうぞ、これを聴こうとする意識、私たちの心を開いてくださいとお願いしなければなりません。
今日、「エファタ」「開かれよ」というこの言葉が聞かされる時、「どうぞ、私の心を、開いてください」と、ほんとうに真剣に願いたいと思います。
〔2006年9月10日 聖霊降臨後第14主日(B-18)説教〕