自分の命を救いたいと思う者は‥‥
2006年09月17日
マルコによる福音書8:27〜37
聖書全体、とくに新約聖書の全体のテーマは、何でしょうか。
それは、ひとくちに言うと、「イエスとは誰か」「イエスとは何者か」ということをこれを読む人々に知らせることだと思います。そして、さらに、イエス・キリストを、受け入れますか、この方に従いますかと迫ってきます。
今日の福音書は、この聖書全体のテーマに通じるだいじなことを教えています。
主イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリアという地方のあちこちの村にお出かけになったとき、その道で、弟子たちにお尋ねになりました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているのだろうか。」
すると、弟子たちは人々から聞いた噂を口々に伝えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っている人がいます。ほかに、『エリヤだ』と言っている人もいます。さらに『預言者の一人だ』と言っている人もいます。」
主イエスは、ご自分への人気や噂を気にして、このような質問をされたのではありません。人々は、わたしをどのように受け取っているか、誰だと思っているのだろうかと尋ねておられます。
多くの病人をいやし、歩けない人が歩けるようになり、目の見えない人が見えるようになり、4千人、5千人の人々にパンを与え、その他にも多くの奇跡を示しておられます。また、この主イエスの教えには、今まで聞いたことがないような権威がある、この方はふつうの方ではないことがわかる。神とかかわりのある方、神から特別の能力を授けられた方だということはわかる、そこで、人々は、自分たちの知っている歴史上の人物、神の人と言われる預言者の再現だと受け取っていることを伝えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。『エリヤだ』と言っている人もいます。また『その他の預言者の一人だ』と言っている人もいます。」その答えは、まだ、ピントがすこしずれていて、ぼやけていますが、しかし全くはずれているのでもありません。
すると、主イエスは、弟子たちに向き直ってお尋ねになりました。
「それでは、聞くが、あなたがたは、わたしを何者だ思っているのか。」
弟子の一人、ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」
「メシア」それは、「あなたは救い主です」、「あなたはキリストです」「神がこの世を救うために遣わされた方です」と言い表しました。 この答えは、ちゃんとピントが合った、的を射た答えでした。単に名前や肩書きを言ったのではありません。主イエスが求めておられる答えでした。それは、心の中から出る信仰を告白する言葉でした。
主イエスはうなずかれたのか、ペトロを褒められたのかはわかりません。ただ、御自分のことを、だれにも話さないようにと弟子たちに口止めされました。
その直後だったのか、別の場面だったのか、これもわかりません。しかし、マルコが伝えようとしているところでは、このようなペトロの信仰告白のすぐ後に、主イエスは、とってもだいじなことを弟子たちに打ち明けられました。ペトロが正しい信仰告白をしたからこそ、それを前提にして語られたのだと思います。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている」と言われました。
弟子たちは驚きました。そんなことは信じられません。この方を慕い、仕事も家族も捨てて、ここまでついて来たのです。この方こそ、救い主であると信じ、今、口に出して告白したばかりです。その方が、今、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、殺されるだろう、そして3日目に復活することになっているなどと、はっきり言われて彼らはうろたえました。
ペトロは、主イエスをわきへお連れて行って、いさめました。「めったなことを言わないでください」と。主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
「お前は、わたしのことを何もわかっていない。神がなさろうとすることに逆らおうとしている。わたしが神のみ心に従おうとすることを妨害している。誘惑する者、悪魔だ。引き下がれ。何もわかっていないのだ」と、厳しく叱られました。
それから、人々を弟子たちと一緒に呼び寄せて言われました。ご自分が十字架と復活への道のりを歩みはじめることを宣言なさって、その直後、それは、最もだいじな教え、これだけは知ってほしい、このような生き方をしなさいという、命をかけた教えをなさいました。
第1に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
第2に、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
1964年、今から40年前に亡くなった方で、岸本英夫という先生がおられました。東京大学の文学部の教授で、宗教学、宗教史の世界的な権威でした。アメリカのスタンフォード大学に招かれ、客員教授としてアメリカに滞在している時でした。
1954年4月ごろ、左頸部、顎の下あたりに卵ぐらいのぐりぐりができて、なかなかとれないので、医者に診てもらい、念のために摘出しましょうということで切開手術を受けました。退院して、数日後、連絡があって、悪性の腫瘍、ガンだということが知らされました。ガンの原発、いちばんの病巣がある、それを探さないといけない、そのためには本人への告知が必要でした。
50年前のことですから、アメリカにおいても、ガンに対する治療法や考え方も、今とはずいぶん違っていました。抗ガン剤や手術の方法もその間にずいぶん進歩しています。
この岸本先生は、アメリカの病院で、検査を受け、第1回の手術を受けました。日本に帰って、それから約10年、20回の手術を繰り返し受け、その間、研究活動、講演を続け、1964年に亡くなりました。目の前に迫る自分の死に向き合いながら、また宗教学者として語られたものが書物となって残されています。
ここにその一部を紹介したいと思います。これは、1962年7月12日から3日間、NHKラジオの「人生読本」という番組で放送されたもの一部です。
「本当の幸福とは、いったい、何でありましょうか。人間の幸福は、複雑なものです。いろいろな要素があって、それがいっしょになって、からみ合って、幸福がつくり出されています。しかし、人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、傷つきやすい、みかけの幸福である場合が多いようです。それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、それを、死に直面した場面に立たせてみると、はっきりとわかります。
たとえば、富とか地位とか名誉とかいう社会的条件は、たしかに幸福をつくり出す要素であります。また、肉体の健康とか知恵とか、本能とか容貌の美しさという個人的条件も、幸福をつくり出している要素です。だからこそ、みんなは富や美貌にあこがれるので、もっともなことです。
しかし、そうした幸福を、自分の死という現実の前に立たせてみると、そういうものが破れやすいものだということが出てきます。今まで輝かしく見えたものが、急に光を失って、色あせたものになってしまいます。お金では、命は、買えない。社会的地位は、死後の問題に答えてくれないのです。
しかし、そのような傷つきやすい幸福も、それにもう一本、強い筋金が入ると、力強い、ほんとうの幸福になってくる。その筋金とは何であるか。私にとっては、その筋金となる要素は、生き甲斐ということだと感じられます。
生き甲斐を感じてさえいれば、みかけだけの幸福であったものも、力強い、ほんとうの幸福に変わってくるように思います。生き甲斐という感じに裏打ちされている幸福は、死の恐怖に対しても、強い抵抗を示してくれます。
いろいろな苦しい経験を通して、何年か生きていきますうちに、心が少しずつ開けてきたように思います。そして、生き甲斐ということが、必ずしも、がむしゃらに働くことだけではないのではないかと考えるようになってきたのです。ただあてもなく、やたらに、かけずり廻っているわけではなく、それは一つの方向をもっている。一つの目的があって、それに向かって働いていたということに気がついたのです。
さらに、気がついたことは、このようにして、本当に、自分が、一つの目標に打ち込んでいくことができると、そのときに、自分はそれにささげつくしたという感じがでてくるということであります。自分の命のすべてをあげて、ささげつくしたときに、人間は、最も強い生き甲斐を感じて幸福なのだということです。
考えてみますと、ここに人間生活の、不思議なからくりがあるようであります。自分にとって、もっとも大切なものは、命なのでありますが、その大切な命を捨てることができるようになったその時に、私は、自分の命の、もっとも強い生き甲斐を感じ、私はもっとも幸福である、ということであります。」(岸本英夫著「死を見つめる心」1964年 講談社、「私の心の宗教」P.47〜51)
長々と引用しましたが、主イエスのみ言葉に、死に直面しながら生きている一人の人の言葉を通して、近づき、理解を深めたいと思います。
岸本英夫先生の言葉に、「生き甲斐ということは、必ずしも、がむしゃらに働くことだけではない。ただあてもなく、やたらに、かけずり廻っているわけではなく、それは一つの方向をもっている。一つの目的があって、それに向かって働いていたのだということに気がついた」とありました。
岸本先生の言葉にはありませんが、私たちには、ここに「わたしに従いなさい。」と言われる主イエスがおられます。「主イエスのため、また福音のために命をかける」という目標、目的があります。
自分の命がいちばん大切なのだとばかりに、「自分が、自分が」と主張し、「自分の得、自分の利益、自分の欲望」をのみ呼び込もうとする時、命を失う。本当の生き甲斐を、生きることの充実を感じることができないのだということです。
自分以外の者に目が向き、心が向き、そのために、自分の大切な命を捨てることができるようになったその時に、私は、自分の命の、もっとも強い生き甲斐を感じ、私はもっとも幸福であるということができます。
主イエスが、ご自分の死について、復活につて宣言された、もっとも大切な教えとして教えられた言葉をもう一度伝えます。
主イエスは言われます。
第1に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
第2に、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
〔2006年9月17日 聖霊降臨後第15主日(B-19)説教〕