「いちばん偉い者」

2006年09月24日
マルコによる福音書9:30〜37 1 イエス、エルサレムに向かって歩き出す。  主イエスが、主に活動された宣教の舞台は、ガリラヤ地方でした。パレスチナと呼ばれるこの地域は、地中海の西の端、この地中海に沿った三日月型の地形をした地域を言います。北の方からガリラヤ地方、そして中程にサマリア地方、さらに南の方にユダヤ地方と言われる地域に分かれていました。このユダヤ地域にエルサレムがあり、小高い山の上に城壁に囲まれたエルサレムの町が広がっていて、東の城壁に沿った所に神殿がそびえていました。  主イエスの時代のエルサレムは、まさにユダヤ教の本山でした。 神殿には祭司たちが大勢務めおり、サドカイ派を成しています。あちこちの会堂や議会には、ファリサイ派がたむろし、律法学者たちが絶えず議論していました。その他にも熱心党やダビデ党などの集まっていました。さらに、ローマの総督の官邸があり、ヘロデ王の宮殿もありました。  マタイ、マルコ、ルカの福音書によりますと、主イエスは、北のガリラヤ地方のナザレで育ち、その地域を生活の場としていました。12歳の少年イエスが、エルサレムに上って行ったという話はありますが、それ以外には、エルサレムに出かけたという記事はありません。  30歳になって、ガリラヤやその周辺の地域で宣教活動をしておられましたが、ユダヤ教の本山であるエルサレムには足を向けておられません。 2 3度にわたる苦難と復活の予告  ところが、ある時、主イエスは、突然、顔を上げ、まっすぐにエルサレムに向かって歩き始められました。  そのきっかけになったのは、主イエスが、突然、弟子たちに 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と予告された時からでした。「人の子」とは、主イエスが自分自身のことを指して言われます。  ある時から、弟子たちに向かって、「わたしは、かならずユダヤの長老や祭司長、律法学者たちに捕らえられ、数多くの苦しみを受け、排斥され、引き渡され、殺されるであろう。そして3日目に復活するであろう」と断言されたのです。それも、一度ならず3回も予告されたのです。マルコの福音書によりますと、8章、9章、 10章にそのことが記されています。  弟子たちは驚きました。はじめてその言葉を聞いた時には、弟子の一人、ペトロは、主イエスをわきに引っ張っていっていさめました。しかし、主イエスに、「サタンよ、引き下がれ。おまえは神のことを思わないで、人間のことを思っている」と、きつく叱られました。  正直に言って、弟子たちには、主イエスの心の内がわかりません。なぜ、そんなことを言われるのか、神のみ心というものがどんなものか、全然理解できません。今日の福音書9章32節には、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、記されています。  主イエスが、最もだいじこと、ご自分の命にかかわること、苦難と、死と、復活のことを話しておられるのに、弟子たちの誰一人、その心をわかることができず、だからといって、あらためて質問して、問いただすこともできませんでした。それは、彼らが恐かったからでした。  このように主イエスがこれから歩もうとされる道もその方向も理解できないことが、その後、弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りにつながり、ペトロが「あんな人は知らない」と主イエスを3度にわたって否定したことにも現れ、その他の弟子たちも逃げ去ってしまったということにつながっていきます。  弟子たちは何を怖がったのでしょうか。何が怖わくて、主イエスに、もう少しつっこんでお尋ねすることさえできなかったのでしょうか。彼らが、主イエスに質問して、答えが与えられたとしても、だからといって了解できるような問題ではないと、うすうす予感したからではないでしょうか。 3 誰がいちばん偉いのか  さて、本日の福音書、マルコが伝えるところによりますと、主イエスの2回目の苦難と復活の予告のことが記されていますが、このような重大な、主イエスの苦難、死、復活の予告の、すぐ後に、弟子たちはどうだったのでしょうか。   主イエスと弟子たちの一行が、カファルナウムに来て、一軒の家に着いた時、主イエスは、弟子たちに、お尋ねになりました。  「途中で、何を議論していたのか」と。(33節) 「彼らは黙っていました。彼らは、途中で、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」と記されています。  「議論していた」とありますが、口角泡を飛ばして、大声で言い合っていたのではありません。ひそかに思いめぐらす、思案する、内証話をする、私語をしていたぐらいだったと言われます。  それにしても、主イエスの心とはかけ離れた、全く次元の違うレベルのことを弟子たちは考えていたことがわかります。  「だれがいちばん偉いか」これは、どのような意味で言っているのかよくわかりません。人の能力、権威、人徳なのか、社会的な地位なのか、信仰の深さや宗教的指導者としての地位のことを言っているのかもわかりません。  マタイによる福音書では、平行して書かれた記事では、弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言ったとあり(18:1)、ルカによる福音書では、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。(9:46) 4 仕える者となりなさい これに対して、主イエスは言われました。  「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9:35)    主イエスは、いちばんであること、いちばんになることを否定されたのではありませんし、いちばんになろうとする努力や欲望を否定されたのでもないと思います。何をもって「いちばん」とするか、いちばんであることの内容を問題にしておられます。  今、幼稚園や保育園、小学校では、運動会がたけなわというシーズンです。どこでも行われている駆けっこやリレー競争で、主イエスがおっしゃったからというので、すべての人の後がいちばん偉いのだといって、みんな、後ろになろうとのろのろ走ると、駆けっこは成り立ちませんし、運動会の意味がなくなってしまいます。  主イエスが言おうとしておられることは、なにがなんでも、人の上に立とうとすること、人を押しのけてでも、自分が持つ目的を達成し、自分の欲望のみを満足させようとすること、自分の可能性だけを追求し、実現しようとすること、そのような願望を退けられます。何が大事で、何が大事でないか、主イエスが持っておられる価値基準とこの世の価値基準が全く逆であることがわかります。  さらに「すべての人に仕える者になりなさい。」語られました。  「仕える」という言葉は、食事の席で給仕をする人の姿からきています。  ルカによる福音書22章26節,27節にこのような主イエスの言葉があります。 「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」  主イエスの時代には、奴隷制度がありました。王のもとで働く奴隷や農業に従事する奴隷などさまざまな種類の奴隷がありました。主イエスの時代のパレスチナには、それほど大きな農場などはなく、主に、エルサレムに住む金持ちや貴族の家で働く家内奴隷でした。 奴隷は、ご主人の持ち物、財産の一種と考えられ、全く自由を持たない、ご主人の命令に服従する単なる労働力でした。奴隷には衣食住は与えらえますが、もちろん働いただけ得られる報酬、給与はありません。ご主人の命令に従って働く、ご主人に仕えることだけが義務づけられています。そして、役に立たなくなった奴隷は、売り飛ばされてしまいます。  家の中で働く奴隷は、家族や来客のために、食事の席で給仕をします。主イエスは言われます。「食事の席に着く人、すなわち給仕される人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人、給仕される人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」  この世の価値観からすると、給仕する者よりも給仕される者の方が偉いということになります。給仕する者は威張って、あれこれと命令し、飲み物でも食べ物でも持って来させることができ、スプーンやナイフを落としても自分で拾おうとしないで、僕を呼んで床に跪いて拾わせます。ご主人と僕では、ご主人の方が偉いというのは当然です。  現在でも、レストランや食事の席に行くと、給仕をしてくれる人がいます。しかし、それは、仕事として、職業として、サービスを売っているのであって、お金を払って、サービスしてもらっているのです。ある一定の時間、仕えられる喜び、偉い人になったような喜びを楽しんでいるのです。  しかし、主イエスの価値観は、世間一般の価値観とは逆転しています。給仕する者になりなさい、仕えるものになりなさい、何の報酬も受けない奴隷のような仕える人になりなさい、僕になりなさいと言われます。  支配者は、命令する力を持っています。権力をふるいます。その結果、傲慢、わがままな振る舞いをし、自分を絶対化してしまいます。いつのまにか神になったかのように思い上がってしまいます。  それに対して、奴隷、僕は、謙遜、謙虚でなければ勤まりません。自分の運命や命さえも、ご主人次第、すべてを任せざるをえない生き方です。  では、主イエスは、ここで単に、傲慢、わがままになることを戒め、謙遜、謙虚な生き方をせよと教え、そのような意味で「仕える者になりなさい」と言っておられるのでしょうか。なぜ、奴隷のように、僕のように、仕える者にならなければならのかという理由は何も述べておられていません。  マルコによる福音書10章43節以下、第3回目の受難の予告の後の言葉ですが、次のように言われます。 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  主イエスがこの世に来たのは、人々に仕えられるためには来たのではない、人々に仕えるために来たのだと言われるのです。   支配者となって、多くの人々にかしずかれ、権力を振り回し、偉そうにするために来たのではない。そうではなく、反対に、人々に仕える者となり、人々の罪を負って、自分の命を身代金ととしてささげ、人々の命を買い戻すために、命をささげるために来たのだ、だから、あなたがたも同じように、偉そうに権力をふるう者になるのではなく、僕となって仕える者になりなさいと言われるのです。  「わたしが仕える者として、この世に来たのだから、あなたがたを仕える者になりなさい。わたしが人々のために仕え、徹底的に仕えたのだから、だから、あなたがたも仕え合いなさい。」と言われるのです。  仕えなさいと言われる理由は、ここにあります。  まず、第1に、私たちは、主の僕です。私たちの主は、神であり、イエス・キリストです。主の僕として、主に仕えなさい。  第2に、キリストに仕えるということは、私たち人間同士が互いに仕え合う者になりなさいと言われます。まず教会の中で、私たちは仕え合う関係でなければなりません。そして、家庭において、職場やその他の人間関係において、クリスチャンである者の生き方は、仕える人でなければなりません。主イエスが、もっとも大事な教えとして、私たちに命じられる生き方は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」ということです。      〔2006年9月24日 聖霊降臨後第16主日(B-20)説教〕