「あなたたちの心が頑固なので」

2006年10月19日
マルコ福音書10:2〜9  今日の福音書は、結婚式の説教の中でよく引用される個所で、この教会では、結婚式が多く行われますから、またかと思われる方もおられるかも知れませんが、もう一度、主イエスの離縁問題についての教えから、学んでみたいと思います。  離婚とか離縁とかは、今日では、当然の社会現象のように扱われていますが、具体的なケースでは、それぞれに計り知れない苦悩と悲しみを伴った問題だと思います。夫婦の問題の解決のために、一生懸命努力し、悩み、苦しんだあげく、そのようになってしまったということなのですから、当事者だけではなく、周りの人々にも多くの影響を及ぼし、そして、いつまでも痛みが残ります。そのような経験を持つ方も、その痛みを克服するためにも今日の聖書の個所から逃げるのではなく、まっすぐに向き合って頂きたいと思います。  ファリサイ派の人たちが、主イエスに議論を吹きかけました。  最初に、このファリサイ派の背景について、知っておきたいと思います。  主イエスの時代のファリサイ派と言われる人たちは、ユダヤ教の一派で、サドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていました。律法学者の多くはこの派に属しており、律法主義と言われる考えに固まっていて、律法を守ること、とくに安息日や断食、施しを行うことや宗教的な清めなどを毎日の生活の中に強調していました。小さい時から律法を学び、神の掟、律法のことについては、よく知っている人たちでした。  そのファリサイ派の人たちが、イエスに近づき、質問をしました。  「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。  マタイによる福音書では、同じことを記した個所に、そこのところには、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った」とあります。「何か理由があれば、」という言葉が付け加えられています。  その当時のユダヤ人の間では、律法を守るということに命をかけている一方で、きびしい律法の網の目をくぐり抜けようするような律法の解釈や方法が考えられていました。離縁してはならないと教えられる一方で、このように、どのような時に離縁できるかということが大きな問題でありました。  男尊女卑、女性の立場が極端に低く見られ、差別されていた時代でしたから、夫の側からだけしか離縁は認められず、夫の側の理由で、一方的に離縁されていました。  その中でも、夫からの理由はどんなことでもよいのか、また妻が姦淫の罪を犯した時だけ離縁できるのか、というような議論が絶えず起こっていました。  さらに、その当時、ユダヤの王ヘロデ・アンティパスが自分の兄弟フィリポの妻ヘロデアと結婚したということがあり、洗礼者ヨハネは、「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」(レビ18:16)と定められている律法に反すると叫び、そのことをきびしく非難し、追求したために、捕らえられ、牢につながれ、殺されるという事件がありました。(マルコ6:14−29)  彼らが主イエスに質問をしかけた動機は、純粋に答えが「わからない」から尋ねたのではなくて、主イエスを試そうとして、試みるためにしかけた質問でした。はじめから主イエスに敵対する姿勢で、あわよくば群衆の前で、困らせてやろう、恥をかかせてやろうという気持ちで、議論を吹きかけてきたのです。さらに、あわよくば、場合によっては、王の不道徳を非難した者として、王に訴え、洗礼者ヨハネと同じように亡き者にしようという魂胆が見られます。  聖書には、はっきりと、「イエスを試そうとしたのである」とあります。  主イエスは、「モーセは、あなたたちに何と命じたか」と問い返されました。  イエスの答えを待つまでもなく、彼らには、当然、その答えがわかっていました。すぐに、待ってましたとばかりに答えました。  彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました。  旧約聖書の申命記24章1節に、このように記されています。 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」   2千年昔、その時代は、男尊女卑、男優先の時代、女性の権利が認められない時代でありました。モーセの律法によると、夫にのみ離婚権が認められていて、そのことは主イエスの時代にも誰でも知っている掟でありました。ところが実際には、妻に離縁状を出すということは、その女性に再婚への道を開く方法でもありました。  主イエスが、離婚問題に関して、モーセの掟と異なる教えをしていることは知っていて、言いかえれば、モーセの律法に違反して教えているということを人々に印象づけようとする敵意から出た質問だったのです。  これに対して主イエスは言われました。  「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と。  「あなたたちの頑固な心のゆえに」モーセがこのような掟を書いたのだと言われます。  創世記の最初の「天地創造の初めから神は人を男と女にお造りになった。」(創世記1:27)、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24) これが神が定められた結婚の奥義です。しかし、人々の「頑固な心」のゆえに、すなわち、神の啓示、神の命令、神の教えに対する無理解、不従順のゆえに、次善の策として、モーセによって、このような掟が定められと言われるのです。  モーセの律法そのものが、人間の罪に対する譲歩だと言われるのです。「あなたたちの頑固な心のゆえに」、「あなたがたのために」この掟が書かれただと言われます。  結婚の奥義は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  ここに結婚に関する掟、結婚の奥義があります。  しかし、そこにいるファリサイ派の人々だけではなく、代々のユダヤ人たちは、この結婚の奥義である掟を守ることができませんでした。それは、彼らがほんとうの神のみ心を理解しなかった、神のみ心に従おうとしなかったためだと言われのです。  どんなに時代が変わっても、人々から何といわれようとも、現在においても、キリスト教では、離縁、離婚はすべきではないと主張しています。しかし、一方では、離婚せざるを得ない事情もありますし、そのことに伴う苦しみや悲しみも十分にわかります。それらの人々が抱えている深い心の痛みを感じながら、それでも「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と言い続けなければなりません。  それはなぜかと言いますと、結婚というものが、神と人との関係を投影しているもの、映し出しているものだからです。  親子や兄弟の関係は、血のつながり、生まれた時から取り消すことのできない関係です。これに対して、結婚して夫婦になるというのは、ある時から他人と他人が寄り添い、生活を共にし、家庭を築き、子を育てる。その関係は、愛し合うことが根底にあり、その上に立って、夫婦になりましょう、生涯共に過ごしましょうという「約束」「契約」をして成り立っている関係です。 親子や兄弟の血のつながりは、どんなにけんかしても、縁を切ると言っても、親子は親子、兄弟は兄弟であるわけです。これに対して、夫と妻の関係は、夫になりましょう、妻になりましょうと言葉で誓い合った契約、約束の上になりたっているのですから、どちらか一方がその約束を破って、契約を反故にするようは言動があると、その関係は破綻してしまいます。  わたしたちと神の関係も、この関係に似ている。神と人の関係は、愛であり、信頼であり、信仰です。そして、その上に立って、契約が結ばれています。かつて、神は、アブラハムを通して、ヤコブを通して、モーセを通して、預言者たちを通して、イスラエルの民と契約をなさいました。しかし、イスラエルの民は、人々は、これを破り続けました。  そして、最後に神は、ご自分のひとり子を遣わし、その命を与えることによって、新しい契約をお与えになりました。  このように神を信じる信仰の関係と、妻と夫の関係は重なりあって、合い似た関係にあり、そこに大きな意味を持っています。  このような、神のみ心を理解できない、これに従うことのできない人々の心の頑なさ、頑固さを、主イエスは、ここで問題にされるのです。  わたしたちと、神、主イエスとの関係はどうでしょうか。  洗礼の時に誓った約束を、誓約を思い出してみましょう。  わたしたちも神と、はっきりと約束したことを忘れて、自分たちの弱さのゆえに、いいわけをつくっていないでしょうか。気休めになるような言葉を頼りにして、自分自身の神との関係を正当化していないでしょうか。  神のみ心を理解しない、従おうとしない頑固さを指摘されています。表面的な、形式的な律法の守り方を非難しておられる主イエスの心を知りたいと思います。 〔2006年10月8日 聖霊降臨後第18主日(B-22)説教〕