ヤコブとヨハネの願い
2006年10月26日
マルコ福音書10章35節〜45節
マルコ福音書のテーマ
このマルコによる福音書は、いくつかのテーマを持っていますが、その一つに、「弟子たちの無理解」ということを上げることができます。
主イエスによって、招かれ、選び出され、教育を受け、訓練されて、いちばん主イエスに近いところに居て、誰よりも主イエスのことを知っている、分かっているはずの弟子たちなのですが、その弟子たちがいちばん分かっていない、理解していないと言っています。 主イエスの心、考えておられること、求めておられることが、弟子たちには全然わかっていないという、主イエスのもどかしさが伝わってきます。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネ
ある時、主イエスの弟子で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネと呼ばれる兄弟が主イエスの前に進み出てきました。
主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで漁をしていたペテロとアンデレをお招きになり最初の弟子とされました。そして、そのすぐあとで、やはり漁をしていたゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟を主イエスはお呼びになり、彼らも父を仲間に託し、舟も網も残して、主イエスに従いました。
12人の弟子たちの中では古顔ともいうべき人たちです。
この2人が主イエスに言いました。
「先生、お願いがあるのですが。私たちの願いをぜひかなえていただきたいのですが。」
主イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、2人は言いました。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの1人をあなたの右に、もう1人をあなたの左に座らせてください。」
3回目の予告のあとで
主イエスは、弟子たちに、「わたしは、ユダヤの祭司長、律法学者、長老たちに捕らえられ、苦しみを受け、殺され、3日目によみがえるであろう」と、予告されました。そのことを3度も予告されました。これに対する弟子たちの反応はどうだったでしょうか。
1回目(マルコ8:32)の予告の時には、ペトロは主イエスをわきにひっぱて行っていさめました。その時ペトロは「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」といって主イエスに叱られました。
2回目(マルコ9:30)の予告を聞いた時には、弟子たちは「誰がいちばん偉いか」と議論し合っていました。そして主イエスは言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)
弟子たちには、この言葉がまだ理解できていないとしか言いようがありません。
そして、3回目(10:33)の予告があり、ヤコブとヨハネが、主イエスにこのようなお願いしたのは、この3回目の予告がされた直後のことでした。
ヤコブとヨハネは、主イエスに、「死なないでください」とか、「そんなことは言わないでください」と言ったのではありません。
主イエスのなさった予告を、受け入れました。それが神のみ心であることもよくわかっていますよと、いかにも理解を示すような口ぶりで言いました。
栄光をお受けになるとき
そこで「先生が栄光をお受けになるときは」と言ったのです。
あなたは、神の子です。その神の子が、人間の肉体をとってこの世に来られました。そのことはよく分かっています。そして、死んでよみがえって、再び神の座に戻られようとしています。そのこともよく分かっています。
ついては、その時には、神の栄光の座に着かれる時には、あなたの栄光の座に最も近い、いちばん重要な地位につかせて下さいと、主イエスにお願いしたのです。 「右の座」は最も名誉を受けるべき者が座る座です。そして「左の座」は、次に名誉を受ける者が座る座です。自分たちのために誰よりもいちばん上の特別席を予約しておこうとしました。その時には、主イエスと同じ栄光を受けることができると考え、その中で最も高い地位を望んだのです。
わたしが飲む杯わたしが受ける洗礼
主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、何を言っているのか全然分かっていない。」と言われました。
分かったようなことを言って、全然わかっていないではないかと、嘆いておられる主イエスの気持ちが伝わってきます。
さらに主イエスは言われました。
「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
主イエスが飲もうとされる杯の中身は苦い苦い酒、ぶどう酒です。
旧約聖書のエゼキエル書23章31節以下に次のように記されたところがあります。
「お前は姉の歩んだ道を歩んだので、わたしは彼女の杯をお前の手に渡す。主なる神はこう言われる。姉の杯を、お前は飲まねばならぬ、深くて大きい杯を。お前は嘲られ、侮られる。杯は満ち溢れている。お前は酔いと悲しみで満たされる。恐れと滅びの杯、お前の姉サマリアの杯。お前はそれを飲み干して、杯のかけらまでかまねばならない。そして自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだと、主なる神が言われる。」
「苦い杯」とは、神の憤りの象徴、苦難の象徴として用いられる言葉です。
主イエスが飲む苦い杯とは、主イエスが負った苦しみ、すなわち、捕らえられ、侮られ、嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、死なねばならないという、これから始まる苦難の道程のことを言っておられるのです。
これと同じ苦しみを、わたしが受けるのと同じ苦しみを、おまえたちは受けられるかとお尋ねになりました。
主イエスが栄光をお受けになる前には、このような苦難と死の道を通らなければならない。そのことがことがわかっているのかと問われました。
弟子たちの苦難の予告
ヤコブとヨハネが、「できます」と答えると、主イエスは言われました。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになだろう。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、それはわたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
たしかに、あなたがたも、わたしと同じ苦しみを受けることになる。キリストの弟子だということで迫害を受け、苦しみを受け、最後にはキリストのために死ぬことになるだろうと、彼らの殉教にいたる生涯を予告されました。
しかし、そうだからと言って、栄光の座に着いておられる主イエスの右や左に、誰が座るかということはわからない。それは、父である神がお決めになることだと言われました。
弟子たちの無理解
さらに、弟子たちの無理解、次元の低い無理解が示されています。 ヤコブとヨハネが、他の弟子たちを出し抜いて、主イエスに特別にお願いをしたと聞いた他の10人の弟子たちが、これを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたとあります。
ほかの弟子たちを出し抜いて自分たち兄弟だけの、死後の地位をお願いしたヤコブとヨハネの自分さえよければよいという身勝手さ、エゴだけではなく、これを聞いた他の10人の弟子たちも怒ったというのですから、同じ穴の狢(むじな)、同類ということになります。
主イエスのことが、理解できない弟子たちであったということがわかります。
このように、マルコの福音書には、これでもかこれでもかというように、弟子たちの無理解ぶりを紹介しています。
では、私たちは?
しかし、私たちは、ただ、弟子たちの無理解を、主イエスの心をわかろうとしない弟子たちを笑って見ているわけにはいきません。
それでは、私たちは、どれほど、主イエスのことを理解しているでしょうか。主イエスのみ心をわかっていると言えるでしょうか。
聖書を読み、神を礼拝し、お祈りをしています。ずーっと続けています。何年も、何十年も信仰生活を送っています。教会生活を送っています。
これほど熱心に、一生懸命信仰生活を送っているのですから、主イエスの心の中がわかっているはずです。
主イエスのことが、主イエスは何を喜ばれ、何を嫌がられるのか、どんなことを悲しまれるのか、どんなことをお怒りになるのか、わかるはずです。
しかし、実際は、弟子たちが、主イエスに最も近いところにいて、よくよく主イエスのことを知っているはずの弟子たちがそうであったように、私たちも、主イエスに対して、慣れっこになってしまって、鈍感になってしまって、次元の低い、ピントはずれの求め方やお願いごとになってしまっているようなことはないでしょうか。
異邦人の価値観とどこが違う?
そこで、主イエスは、一同を呼び寄せて言われました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、すなわち、神を知らない人たち、ほんとうの神を信じていない人たちは、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、すなわち、神を知り、ほんとうの神を信じている人は、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
神を信じ、主イエスを信じて生きる生き方は、この世の神を知らない、神を信じない人々の生き方とは違うはずです。何がだいじで何がだいじでないかという価値観も、違うはずです。
仕えられる人にではなく仕える人になりなさい
世間の人が偉いと思うような支配者や権力者が偉いのではなく、ほんとうに偉い人は、仕えられる人ではなく仕える人なのだと言われます。
「あなたがたの中で偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられます。
主イエスのこの言葉は、単に道徳訓や修業のための教えではありません。なぜなら、それは、主イエスが、そのように生き、そのように死なれたからです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
わたしが生きたように生き、わたしが死んだように死になさいと言われます。
私たちが「仕える人」になるのは、主イエスに従おうとする者だからです。
D・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)というドイツの神学者の「共に生きる生活」という書物のなかに、「仕えること」という題で書かれた書物があります。くわしくは紹介できませんが、項目だけをあげますと、「仕えることは」それは、
「言葉をつつしむこと」
「自分自身を取るに足らない者と思うこと」
「他の人の言葉に耳を傾けること」
「他者に対する積極的な助力」
「他者の重荷を負うこと」
「み言葉の証しをすること」
「権威の奉仕」
とあります。
「仕える人になりなさい」ということは、教会の中だけではなく、生活のあらゆる場面で仕えることが求められているのです。
変えられた弟子たち
「弟子たちの無理解」は、主イエスの十字架の瞬間まで続きました。 しかし、実際に、キリストの十字架を見、3日目に空っぽになった墓を見、キリストの復活を体験し、さらに聖霊を受けるというペンテコステの聖霊体験により、彼らは生まれ変わりました。主イエスのみ心のあるところがほんとうに分かる者に変えられていったのです。仕える者として、主イエスのみ跡を踏む者とされました。
主イエスは、ゼベダイの子たちの殉教を予言されましたが、ヤコブは、西暦44年ごろ、ヘロデ・アグリッパ一世によって殺されました(使徒言行録12:2)。
ヨハネは、後にエルサレム教会の柱と目される重だった人々の中に名を連ねています(ガラテヤ2:9)。このヨハネも殉教したと伝えられています。
主イエスは、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と言われ、そして、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言われました。
主イエスが言われた「わたしが受ける洗礼」、「わたしが飲む杯」は、私たちの教会が、今も大切にしている「洗礼」と「聖餐式」を思い起こさせます。洗礼を受け、聖餐にあずかるクリスチャンは十字架を背負ってイエスに従わねばならないことが示されているのではないでしょうか。
主イエスは、言うだけでなく、教えるだけでなく、ご自身が「仕える者」の生き方を通されました。そのために十字架につけられて殺されました。
弟子たちがそうであったように私たちも変えられていくことを願い祈りたいと思います。
〔2006年10月22日、聖霊降臨後第20主日(B年特定24) 説教より〕