「何をしてほしいのか」

2006年10月29日
マルコ福音書10:46〜52  主イエスは、突然、顔を上げ、弟子たちを連れて、まっすぐにエルサレムへ向かわれました。  「わたしはエルサレムへ上って行く。わたしは祭司長や律法学者たちに捕らえられ、死刑を宣告されて、異邦人に引き渡される。異邦人は、わたしを侮辱し、ムチ打った上、殺すであろう。そして3日目によみがえるであろう」と予告され、エルサレムに上って行くということは、すなわち、ユダヤ教の本陣、敵地に乗り込むことであり、そこで苦しみを受け、十字架につけられ、死ぬということでありました。    エルサレムの手前、20キロほどの所にエリコという町があります。主イエスと弟子たちは、エリコの町に着き、そして、そこからエルサレムに向かって出発しようとしたときのことでした。  ここで、バルティマイという盲人に出会い、この盲人の目を見えるようにしたという奇跡を行われました。  エリコという町に、バルティマイという盲人がいました。バルティマイは、生まれつき目が見えなかったのか、大きくなってから見えなくなったのか分かりませんが、まったく目が見えません。毎日、大勢の人が通る、大通りの道端に座って、物乞いをしていました。  道端に上着を広げ、行き交う人々に、手を差しだし、「あわれな盲人でございます。どうぞお金をめぐんでください」と言って、お願いしていました。人々がお金を投げてくれることをお願いしていました。  もう、何年も何年も、毎日同じ所に座って、もの乞いをしていましたから、近所の人々もみんな「あれは、テマイの息子のバルティマイだ」と、名前も知られているような盲人のもの乞いをする人でした。  あるとき、いつものように道ばたに座って、手を差しだしていますと、大勢の人が、バタバタと駆けて来る足音が聞こえました。  「ナザレのイエスだ」、  「ナザレのイエスが弟子たちを連れて歩いてくるぞーーっ」、  「ダビデの子だ」「あのナザレの子イエスは、キリストだ、救い主だ」 「病気を治してくれそうだ」と、 みんな、口々に叫びながら走って行きます。  バルティマイは、首を伸ばし、見えない目を上げて、そちらの方に耳をそばだてました。「ナザレのイエス」という名は聞いたことがあります。病気を治してくださる、奇跡を行う方だという噂も聞いたことがありました。そのナザレのイエスに会ってみたい、そして、もし、この目を治してもらえたらと思っていました。  だんだんと足音が近づいてきます。「ナザレのイエスだ」「ダビデの子イエス」だという歓声も大きくなってきます。  その時、バルティマイは、思わず叫んでいました。  「ダビデの子イエスさま、わたしをあわれんでください。わたしを助けてください。ダビデの子イエスさまーーーっ」  この目さえ見えるようになったら、働くことができる。いろいろな所へも行ける。友だちもできる。年老いたお父さんやお母さんに楽をさせてやることもできる。この目さえ見えるようになったら。わたしのこの目を治してくれる方は、この方しかいない。今、この時を逃がしたら、もう目が見えるようになる機会は二度とこない。バルティマイは、必死になって、狂ったように叫びました。どこにおられるかわかりません。四方八方に向かって叫びました。 「ダビデの子イエスさま、わたしをあわれんでください。わたしを助けてください。」  回りの人たちは、日頃おとなしいバルティマイが狂ったように叫び続けるので、黙らせようとしました。押さえつけようとしました。  しかし、バルティマイは聞きません。ますます激しく叫びました。 「ダビデの子イエスさま、わたしをあわれんでください。わたしを助けてください」と、叫び続けました。  ちょうど、その時、主イエスが、そこを通りかかられました。  バルティマイの叫びを聞いて言われました。  「あの男を呼んで来なさい。ここへ連れて来なさい。」  主イエスのこの言葉で、バルティマイを黙らせようとして押し留めようとしていた回りの人たちは、  「そら、安心しろ。立ち上がりなさい。ナザレのイエスが呼んでおられる。」と言って手を離しました。  それを聞いて、バルティマイは、羽織っていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのもとに手を引かれてやってきました。  主イエスは、バルティマイをじっと見ながら、静に言われました。  「何をしてほしいのか」  バルティマイは、  「先生、わたしのこの目が見えるようになることです。どうぞ見えるようにしてください。」  主イエスは言われました。  「さあ、立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  すると、この盲人の目がすぐに見えるようになりました。  この時のバルティマイの気持ちはどうだったでしょうか。この目さえ見えれば、すべての不幸の原因はそこにあると思い続けてきた者にとって、その原因が瞬間にして取り除けられたのです。  奇跡が起こりました。そして、バルティマイは、救われたのです。  そして、バルティマイは、エルサレムに向かって進んで行かれる主イエスについていきました。主イエスに従う者となったのです。 主イエスは、バルティマイに「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。主イエスは、まず、求めるところを聞かれます。  まず、第1に、神に対して、主イエスに対して、あなたは何を求めるのか。何を願うのか。そこから対話が始まります。奇跡が始まります。 そして、第2に、求めるものの中身、質が問題にされます。  バルティマイは、ひたすら「見えるようになること」を求めました。もっとも小さい者、弱い者、差別され、屈辱の中にある者が、見えない者が見えるようになることをひたすら願いました。  先週の主日に読まれた福音書を思い出してください。今日の福音書の直前の個所ですが、マルコ10:35〜45に、このように記されています。  「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。 『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。 『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。 『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』」  この時、二人の弟子、ヤコブとヨハネに対しても、同じように「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。これに対して弟子のヤコブとヨハネが主イエスに願い求めたのは、栄光の座であり、栄光の王の右の座と左の座につくことでした。主イエスは、彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われました。  さて、主イエスは、バルティマイに、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人は、すぐ見えるようになりました。奇跡が起こりました。どのようにして見えるようになったのかはわかりません。この盲人であったバルティマイは救われました。  その動機は何だったのでしょうか。この奇跡の原因どこにあったのでしょうか。  主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。  バルティマイの信仰とは、何だったのでしょうか。バルティマイは、主イエスが喜ばれるような何か善いことをしたのでしょうか。とうとうと自分の信仰について語ったのでしょうか。  彼がしたことは、この瞬間、命がけでイエスを信頼し、主イエスに頼ったということです。わたしにとって、救ってくださる方は、あなたしかいないと、イエスに願い求めました。この方しかないという思いは命がけでした。だから、叫び続け、訴えつづけたのです。言いかえれば、目の見えないこのバルティマイに、主イエスが見えたのです。そして、一方、目が見えている弟子たちや回りの群衆には、主イエスという方が見えていなかったということになります。  主イエスは弟子たちにも、バルティマイにも、同じ問い「何をしてほしいのか」と尋ねられました。その答えの結果は、バルティマイは、「あなたの信仰があなたを救った」と言って、目が開かれ、救いがもたらされました。一方、弟子たちの答えに対する結果は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」という、弟子たちの無理解が浮かび上がってきました。バルティマイの信仰と、弟子たちの姿勢を対比させてみますと、主イエスが奇跡を行われた動機がわかるような気がします。  そして、バルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った」とあります。バルティマイは、肉体の目が見えるようになると共に、ほんとうの意味で、「見えるようになり」それは、主イエスに従うことでありました。主イエスによって、「見る」ことが出来るようにされた者こそ、まことの弟子となることが出来ます。「エルサレムへの道を進まれる主イエスに従いました。」イエスの十字架への道行きに従うことであり、イエスへの服従が神の国への招きを暗示されています。  さて、今、私たちの前に立って、主イエスはお尋ねになります。 「あなたは何をしてほしいのか」と。  私たちは、何と答えるでしょうか。 〔2006年10月29日 聖霊降臨後第21主日(B-25)説教〕