「あなたは、神の国から遠くない」

2006年11月05日
マルコ福音書12:28〜34  一人の律法学者が、主イエスの所に来て質問しました。  この律法学者というのは、律法の専門家で、若い時から教育、訓練を受け、40歳を越えて、はじめて按手を受け律法学者として認められました。モーセの律法をはじめ、律法、掟に精通し、その他の宗教規則、裁判法規、過去の律法の解釈や伝承にも通じ、自ら律法の解釈をし、また、会堂や個人の家で人々に律法を教える人でありました。律法の解釈者であり、権威をもって律法を教える、律法の専門家であります。  その律法学者の一人が、主イエスの所に来て尋ねました。 「あらゆる掟、律法のうちで、どれがいちばん大切でしょうか。」  当時のユダヤ教では、守るべき掟、律法というものは、数え切れないほどあって、その中からどれがいちばん大事か、重要かと問われても、それに答えることは難しいことです。律法に大小をつける、軽い、重いの区別をつける、そこには、命にかかわるような掟や、人の生き方、道徳にかかわる掟もあれば、財産の所有や金銭にかかわる掟もあります。ましてや、神に対する掟は、大小をつけることはできません。  しかし、主イエスは、お答えになりました。 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』  第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と。  『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』という、この掟は、旧約聖書の申命記6章5節にある言葉で、シェマと呼ばれて、ユダヤ教で古くから基本的な信仰告白の言葉として、毎日唱えられている言葉で、子どもでも知っている掟でした。  また、  『隣人を自分のように愛しなさい。』  は、同じく旧約聖書のレビ記19章18節にある言葉で、 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」とあります。これもよく知られている掟の一つでした。  全身全霊をもって、神を愛しなさい、それと同じように、隣人を自分と同じように愛しなさいと言われます。  どの掟がいちばん大切なのかと、いちばんを尋ねられたことに対して、主イエスは、神を愛せよということと、隣人を愛せよという二つの掟を上げられました。そして、その二つには軽い重いはない、二つは同じ重みを持つ掟であると言われます。  それまでも、申命記とレビ記のこの二つの掟は、大切な掟として、よくよく知られ、教えられている掟でした。しかし、この掟を二つ並べて同時に最もだいじな掟であるとし、「これにまさる掟はほかにない」言われたのは主イエス独自の教えだということができます。  「神を愛する」、「隣人を愛する」とは、どういうことなのでしょうか。愛とか愛するということを定義し、説明することは、非常に難しいことです。それは、何故かといいますと、愛というものを取り出して見せたり、直接そのものを目で見ることができないからです。愛は、ある人とある人との関係を表す言葉であり、神とある人の関係を表す言葉だからです。誰が誰を愛するか、その組み合わせによって、そこに生まれる関係は全く違ったものになります。ですから、愛だけを取り出して説明しつくすことが難しいのだと思います。  そこで、私たちは、主イエスが、持たれた関係、神との関係、人との関係、どのような関係を持たれたかによって、主イエスが言おうとしておられることを知ることができます。  『あなたの神である主を愛しなさい。』この内容は何でしょうか。  主イエスはどのように神を愛されたのでしょうか。  主イエスは、終始一貫、徹底的に神に服従されました。  フィリピの信徒への手紙2:6−8にパウロは言います。  「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」  「十字架の死に至るまで従順であられた」このことが、主イエスが神を愛せよと言われる掟の内容でした。神でありながら、人間となられた、そして、父なる神への信頼と絶対的な服従がありました。  主イエスは、神を愛するということは、神への従順、服従でありました。  そして、『隣人を自分のように愛しなさい。』と言われるこの掟の内容は何でしょうか。マルコ福音書ではこのように言われます。  「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)  主イエスにとって、隣人を自分のように愛しなさいということは、徹底的に「仕える」者となられたということです。「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」僕として仕えるために来られた方であり、そして人々のために仕えた方でした。 そして、すべての人の罪を贖う身代金としてご自分の命を献げるために来られ、そして、実際に、十字架の上に命を献げられました。  「隣人を自分のように愛する」というのは、主イエスが、愛された愛し方からすると、自分を愛する、まず自分を愛する、まず自分の利益を求める愛し方、自己愛ではなく、反対に自己犠牲をもって、隣人を愛することを意味します。  徹底的に神に服従すること、そして、徹底的に隣人に仕えること、この服従と奉仕こそ、主イエスの生きざまであり死にざまでありました。先ずご自分が、服従と奉仕に生き、そして死んでくださった方、この掟を守って見せてくださった方が、最もだいじな掟はこれであると言われたのでした。  この主イエスの答えに、律法の専門家である律法学者が言いました。  「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」  律法学者は、「その通りです」「おっしゃる通です」と言って、主イエスの答えに同意し、賛成しました。しかし、そのあとで、  「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」と言いました。  ユダヤ教は、神は唯一である、神はヤハウェの神、この方しかいないと固く信じ、きびしく教えていました。しかし、このユダヤを取り囲む諸外国の宗教には、多神教が多く、神々を祀る信仰やこれをもとにした文化がひたひたと押し寄せていました。  このような状況にあって、主イエスが上げた第一にだいじな戒め の前半、『神は唯一である。ほかに神はない』を受けて、すなわち「神の唯一性」を強調したのだと受け取りました。しかし、主イエスは、「神を愛しなさい」に強調点を置き、神のみ心に従い、神に服従することこそ、神を愛することであると言われたのです。  さらに、「全身全霊を尽くして、神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と律法学者は言いました。  神殿で犠牲をささげることは、盛んに行われたいました。羊や山羊や牛などを神殿に連れてきて、生け贄としてささげること、それさえしていれば、神によって罪は贖われ、正しい者とされると信じている人たちに対して、それよりも、隣人愛が大切であると叫んだ人がいました。  預言者ホセアは、「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6) と叫びました。  預言者ミカは、「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:6-8)と預言しました。  犠牲をささげる神殿祭儀、宗教的な行事や祭、習慣をいくら守っても、隣人への愛、謙遜、悔い改めがなければ、神は喜ばれないと、律法学者は、主イエスに賛同しました。  主イエスは、律法学者が適切に、正しく答えたので、  「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。  「神の国」とは、神が王として完全に支配される国、そのような状態をいいます。神の栄光、正義、平和、救いを意味します。  この律法学者に対して、このような神の国は遠くないと言われました。それは近い、しかし、それにもかかわらず、あなたは、神の国の外に止まっていると言われました。  マルコ10:17〜22の話を思い出します。  「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。』すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。  『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』  その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」  この律法学者と金持ちの青年はよく似ています。律法はよく知っています。掟は全部守っています。律法の話をすると正しく答えることができます。「あなたに欠けているものが一つある」と言われることばと、「あなたは、神の国から遠くない」という言葉は、意味が一緒です。近くまで来ているけれども、一つ何かが欠けている。 それは、財産を売り払って、わたしに従いなさいということであり、律法学者に対しては、律法にがんじがらめになっている、律法主義を捨てて、わたしに従いなさいということです。  欠けている一つ、近くまで来ていて、もう一歩、それは、すべてを捨てて、「イエス・キリストに従うこと」にあります。  そのあとで、主イエスが「神の国に入ることは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われると、弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言いました。 主イエスは彼らをじっと見つめて言われました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」  「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネの手紙�� 4:8-11)        〔2006年10月5日 聖霊降臨後第22主日(B年-26)〕