苦難が来る

2006年11月19日
マルコ福音書13:14〜23  マルコによる福音書の13章は、主イエスから弟子たちへの最後の教えが記されています。それは、エルサレムの神殿が破壊されるであろうということを予告し、世の終わり、終末のしるしについて語り、大きな苦難の時がくることを予告し、最後に、ほんとうの終末の時には、人の子、すなわち再臨のキリストが人々の前に現れることを告げています。  聖書が書かれた時代、いわゆる原始教会とか初代教会といわれる時代の教会の信仰、クリスチャンの信仰というものは、どういうものだったのでしょうか。  それは、旧約聖書の時代、とくに後期のユダヤ教の思想が、強く影響していました。先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書、ダニエル書12章1〜4節にもそのことが示されています。  「その時、大天使長ミカエルが立つ。   彼はお前の民の子らを守護する。   その時まで、苦難が続く   国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。   しかし、その時には救われるであろう   お前の民、あの書に記された人々は。   多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。   ある者は永遠の生命に入り   ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。   目覚めた人々は大空の光のように輝き   多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。   ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封 じておきなさい。」  「その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」と、苦難の時がくることが預言されています。  ダニエルだけではありません。イザヤ、アモス、エゼキエル、オバデヤも、後期の預言者は、「主の日」が来ることを預言しました。  今から2千年も2千5百年も昔の人たち、聖書の時代の人々の宇宙観や世界観は、今、私たちが持っているものとずいぶん違います。  真っ暗闇の混沌とした何もない所に、神が「光あれ」と言って宇宙万物を創造された。この世のすべてのものを創造されたとあります。この世が神によって始まったのですから、この世の終わりというものが、かならずあると考えていましたし、それは当然とされていました。そして、「その終わりの時」は近いと、預言されていたのです。  ユダヤ教の後期には、とくにこのような終末思想が強く、当時の政治の乱れや生活の苦しさと結びついて、その時は、いつ来るのか、どのようにしてくるのか、その時にはどうすればいいのか、ということが、不安と恐れとともに、議論が絶えず、非常に差し迫った時が想定され、長く緊張が続いていました。  当時のこのような状況の中で、主イエスが弟子たちに、予告し、教えられたのが、エルサレム神殿の崩壊の予告、終末のしるし、そして大きな苦難が来るという予告でした。  「主の日」が来たるということは、救い主が現れることであり、神が裁きをもたらす時でもありました。宗教的民族、信仰共同体であるユダヤ人にとって、異教徒である他国の支配者の言いなりになり、異教の神々をまつる習慣を押しつけられたり、経済的な圧迫を受けることは絶えられないことでした。  主の日、裁きの日、救い主の到来、それは世の終わりの出来事と共にやってくるとするならば、当時のユダヤ人にとって、それは希望の日であり、救いがもたらされる日であり、喜びの日でした。  「苦難の時」、それは、政治的に、宗教的に、経済的に、圧迫や困窮や、雪辱に苦しむ時であり、その苦しみが大きいほど、この日が来るのを強く待つという気持ちが高まってきました。  その日は近いと預言され、緊張が続いていながら、なかなかその日が来ない、終末到来が遅れているという思いが、人々の心を混乱させ、有名な指導者と見ると尋ねに行ったり、偽キリストが横行したりすることがありました。  主イエスの教えは、このような思いの中にある弟子たちのへの警告でありました。 「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」(ダニエル11:31)「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。」(ダニエル12:11) とあります。  異教徒の王が攻めて来たとき、神殿の祭壇は踏み荒らされ、日ごとに献げる供え物は廃止され、「憎むべき荒廃をもたらすもの」、すなわち異教の偶像や祭壇がうち建てられる、そのような時が来ると言われます。 「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 「屋上にいる者は下に降りてはならない。」 「家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。」 「畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」 「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 「このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」 「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今まで、経験したこともなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」 「神がその苦難の期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。」 「しかし、主は御自分のものとして選んだ人たち、神によって選ばれた人たちには、その苦難の期間を縮めてくださったのである。」 「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。」 「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。」 「だから、あなたがたは気をつけていなさい。」 「一切の事を前もって言っておく。」  先日、11月15日の夜、8時15分ごろ、北海道の北、択捉島沖で地震が起きました。そのために、北海道や東北、関東地方に至るまで、津波警報が出され、警戒するよう呼びかけられました。テレビを見ていますと、NHKは、全部の番組をとりやめて、海岸沿いの人は高いところに避難してください、海岸に近づいてはいけませんと、11時ごろまで、何回も何回も繰り返し呼びかけ続けていました。民間放送の方でも、画面の隅のずっと警告のテロップが流れていました。  私は、このテレビを見ていて、実は、今日の主イエスの語られるこの言葉を思い出していました。 「そのときには、山に逃げなさい。安全な場所に逃げなさい。」 「今、屋上にいる者は下に降りてはならない。」 「家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。」 「外にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」 「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女はとくに大変だ。」 「このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」 「デマや間違った情報にまどわされるな。」  その当時の人たちは、地震も、津波も、台風も、竜巻も、大雨も、雷も、洪水も、干ばつも、これらの自然現象は、すべて神との関係でとらえられていました。また、戦争、暴動、殺人、飢饉や病気、疫病も、これらの人間社会で起こる現象も、すべて神との関係でとらえられていました。その一つ一つの出来事は、神の怒りの現れであり、神の意志であり、神の裁きとして受け取られていました。そのゆえに神を恐れ、神を敬い、なんとかして神のみ心のあるところを知ろうと努力しました。  その一方で、美しい自然、豊かな水、豊かな土地、豊作や地の産物、平和、安心、家族や友人とのよい関係も、すべて神との関係でとらえ、これを神の恵みとして受け取り、神に感謝をささげ、神を賛美しました。そして、喜びに満たされ、生きる力が与えられ、生きる原動力となっていきました。    私たちが生きている今の世界や、私たちの生き方を振り返ってみますと、大きな違いがあります。  とくに、近年、物質的な豊かさを誇っている国々では、科学の発達、物質文明と呼ばれる分野の発展はめざましく、昔の人たちから到底想像さえしなかったような世界に住んでいます。ほんとうに何もかも便利になり、たくさんの情報が瞬時に手に入り、もっと便利に、もっと豊にという欲望は止まるところを知りません。  古代の人々、すなわち、聖書の時代に人々が恐怖であり、不幸の源であった自然現象や病気にかかわる悩みの多くは、今、そのほとんどの原因が解明されつつあります。台風も雷も地震も大雨も、その原因や発生の理由もわかっています。その原因はすべて取り除くところまではいっていませんが、ある程度予防したり予知したりすることができます。またその情報は、その場ですぐに世界中に知らせることができますし、知ることができます。  科学の発達は、多くの自然現象からくる恐怖を取り去りました。もはや、自然現象から、神の怒りや神の裁きや神の意志を知ろうという人はいなくなりました。神を恐れなくなった、その結果、神はいないとか、神を必要としないとか、神を信じて生きることができにくくなりました。言いかえれば、人は神のようになってしまいました。  主イエスの時代から、約2千年が経ちました。私たちは、聖書の約束に従って、「終わりの日」があることを信じます。「主の日」が近いことを信じます。主キリストが再び来られることを信じます。この世の終わりがあるように、私たち一人ひとりに、かならずこの世における終わりがあることも知っています。  最後に、パウロの言葉を聞きましょう。 �汽謄汽蹈縫隠機В院�10  「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。  しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。  ‥‥‥‥‥ わたしたちは昼に属しているのですから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」 〔2006年11月19日 聖霊降臨後第24主日(B年特定28)〕