ろばに乗ったイエス

2006年11月26日
マルコ11:1〜11  教会の暦では、今日の主日が1年の終わりとなります。次の主日から「降臨節」(アドヴェント) というキリスト誕生を迎える準備のシーズンに入り、新しい年を迎えます。  この一年の最後の主日は「降臨節前主日」と呼ばれていましたが、今年の5月に開催された日本聖公会総会において、祈祷書の改正がなされ、「聖霊降臨後最終日・キリストによる回復(降臨節前主日)」と呼ばれることになりました。この日の特祷を見ますと、   「あなたのみ旨は王の王、主の主であるみ子によって、あらゆる  ものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み  恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、ま  た、ともに集められますように」  と祈ります。神と人との断絶、人と人との断絶、あらゆるものの関係の回復のためにこの世に来られた主イエス・キリストを強く記念する日として、この日が定められています。  今年からこのように主日の名称が変わりましたので、どうぞ覚えておいて下さい。 主イエスは、ある時、突然、ご自分に身に起こる苦難と死、そして三日目によみがえるであろうと、弟子たちに予告されてから、顔をエルサレムに向け、弟子たちを連れて、まっすぐに進んでいかれました。  マルコ福音書によりますと、エリコという町を通り、さらにベタニヤ、ベトファゲに来られました。それはエルサレムの少し手前の町です。主イエスは、ここで不思議なことを弟子たちにお命じになりました。  主イエスは、二人の弟子に言われました。  「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」  二人の弟子は、言われたように出かけて行くと、道端の戸口の所に、子ろばがつないであるのを見つけたました。そこでそのろばをつないでいる綱をほどいますと、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言いました。  二人の弟子たちは、主イエスの言われたとおり『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』話すと、許してくれました。 二人の弟子たちが、子ろばを連れて主イエスのところに戻って来ました。弟子たちは、そのろばの背中に自分たちの服をかけると、主イエスはそれにお乗りになりました。  エルサレムに近づくと、エルサレムやその他の町から多くの人が集まり、それぞれ、自分が来ていた服をぬいで道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。  そして、前を行く者も後に従う者も声を揃えて叫びました。  「ホサナ。   主の名によって来られる方に、     祝福があるように。   我らの父ダビデの来るべき国に、     祝福があるように。   いと高きところにホサナ。」  これは、詩編118編25〜25にある賛美と祝福の歌声です。  主イエスは、このように、大勢のエルサレムの人々から、「万歳、万歳」と歓迎され、迎えられました。  さて、この光景は、何を意味するのでしょうか。また、主イエスは、なぜ、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。  まず、第一に、エルサレムの市民は、なぜこのようにして主イエスを迎えたのかということを考えてみたいと思います。 この場面から、その当時の人たちが、頭に描き、待ち望んでいた「救い主」とは、どのようなものであったかがわかります。  ユダヤ民族というのは、小さな民族です。強い軍隊もありませんし、経済的にも決して豊ではありませんでした。当時、イスラエルは、地中海沿岸の諸国を征服し支配していたローマ帝国の属国でした。形ばかりのユダヤの王はいましたが、この王は、ローマ皇帝にへつらい、贅沢と保身のみを考え、税金の取立てにきびしい民を苦しめている王でした。  ユダヤの人々は、旧約聖書にみられるように「救い主が来る」という救世主を待ち望む預言のみが希望であり、ただひたすら救い主が現れるのを待っていました。  では、彼らはどのような「救い主」をイメージし、思い描いていたのでしょうか。どんな救い主が現れるのを待ち望んでいたのでしょうか。  それは、エルサレム市民が主イエスのために歌った歌に現れています。「ホサナ(アラム語「主よ、救いたまえ」の意)。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 それは、ダビデ王の再来でした。ダビデ王というのは、紀元前千年に王位につき、はじめてユダヤの国を統一した王でした。軍事力をもって敵を蹴散らす強い王。社会改革者。革命を起こす者。力強い王。このようなダビデ王が再び現れて、自分たちを苦しめている異国の支配者を蹴散らし、自分たちを救ってくれる、解放してくれる、そのような救い主をイメージし、ダビデ王の再来を待っていました。  主イエスこそ救い主であると、主イエスを慕い、主イエスについてきた人たちもいたわけですが、彼らも、自分たちが描く勝手なイメージでをもって主イエスに期待をかけていました。  しかし、主イエスはどうであったかというと、主イエスが示すキリストの姿は、人々が求めるものとは違っていました。  第二に、主イエスは、なぜろばに乗ってエルサレムに入られたのでしょうか。  主イエスは、わざわざ二人の弟子たちを使いに出して、ろばを借りて来させ、ろばに乗って、エルサレムに入ったのでした。  ゼカリア書にこのような言葉があります。(9:9-10)  「娘シオンよ、大いに踊れ。   娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。   見よ、あなたの王が来る。   彼は神に従い、勝利を与えられた者   高ぶることなく、ろばに乗って来る   雌ろばの子であるろばに乗って。   わたしはエフライムから戦車を   エルサレムから軍馬を絶つ。   戦いの弓は絶たれ   諸国の民に平和が告げられる。   彼の支配は海から海へ   大河から地の果てにまで及ぶ。」  この預言の実現として、主イエスは、ご自分がどのような者であるかを示そうとしておられます。  小さなろば、子ろばにまたがって大勢の人々に囲まれて進む主イエスの姿を想像して頂きたいと思います。  出エジプト記(13:12、13)を見ましょう。   「初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。」ろばは、神にささげられない動物、神の前に良しとされない動物とされていました。馬に比べて、小型で背が低く、身体全体に比べて、顔や頭が大きく、性格はのろまで頑固な動物です。決してさっそうとはしていない動物です。背中に大きな荷物を背負って歩くことはできますが、早く走ったり、敏捷に動くことができません。  これに対して、馬は、大きさも足の長さも違います。早く走ることができますし、力強く美しい姿をしています。当時、馬は、戦争に使われ、立派な馬、たくさんの馬は大きな軍事力を表すものでした。  強い王、敵と戦って勝利を得た凱旋将軍は、立派な馬にまたがって、意気揚々と国に帰ります。民衆の歓声、賞賛を浴び、人も馬も堂々とした態度で民衆の歓迎を受けます。  しかし、それは、すべてを神にゆだね、神のみ力にのみ任せよという預言者たちの口を通して語られる神のみ心とに反して、兵隊の数や馬の力、すなわち軍事力に頼り、目に見える人の力にしか信頼できない当時の人々の姿が象徴されています。  エルサレムの市民は、群衆はイエスを歓迎しました。多くの人が自分の服を脱いで道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。そして、前を行く者も後に従う者も叫びました。「ホサナ。主よ救ってください。主の名によって来られる方に、祝福がありますように。われわれの大いなる父ダビデが来てくださるべきこの国に、祝福がありますように。いと高きところにホサナ。」  凱旋将軍を迎えるような騒ぎで、主イエスを迎えました。この情景の中に、多くの群衆が主イエスに期待している姿が見えます。それは、強い王、力を持って民を支配し、統治する王であり、ダビデ王の再来でした。  ところが、主イエスの姿は、決して凱旋将軍のような姿ではありませんでした。堂々としていませんでしたし、笑顔で応え、自信に満ちて胸をはってふんぞり返っている凱旋将軍のような姿はありませんでした。  小さなろばに乗って、もっとも値打ちのない動物とされるろばに乗って、とぼとぼと人々の前を通って、エルサレムに入られました。  ただ、「娘シオンよ、大いに踊れ。     娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。     見よ、あなたの王が来る。     彼は神に従い、勝利を与えられた者     高ぶることなく、ろばに乗って来る     雌ろばの子であるろばに乗って。」 (9:9-10) という預言者ゼカリアの預言が成就している瞬間であり、そこには神のみ心が明らかに示されて光景でした。  ところが、そのことを悟ることができないエルサレムの市民が、この同じエルサレムの市民が、一週間には「十字架につけよ」「十字架につけよ」と叫んだのです。  イエスは、最後まで、武器を取って立ち上がることはありませんでした。人を組織し、人を扇動し、暴動を起こし、社会革命を行う気配もありませんでした。当時の権力者、支配者たちとは関わりさえ持つことはありませんでした。むしろ、飼う人のない羊のような、人からかえりみられず、相手にもされないような、病人や目の見えない人や罪人と言われる人たちの側に身を置き、失われた魂のために、途方に暮れる人々と共にいて、彼らと共に飲食し、呼吸しておられました。  どんな権力者も支配者も、宗教的指導者も、一人の人間として見たときには、悲しみも、寂しさも、苦しみも持っていることには違いはありません。しかし、彼らは、自分たちが持っている権力や財産や名声のゆえに、これに依り頼み、本当の魂をいやして下さる方を受け入れることができません。  主イエスが示された本当の救い主の姿は、立派な颯爽とした馬ではなく、足が地面に着きそうな小さな子ろばに乗って歩む男の姿であり、屠り場に黙々と引かれていく羊の姿であり、醜く十字架にぶら下がる姿でありました。  しかし、その主イエスは、人をいやし、がんじがらめに鎖で縛り付けられている魂を解き放ち、ご自分を受け容れる人々に本当の平和、ほんとうの救いを体験させられたのです。  教会の暦の一年を振り返り、私たちがこのような主イエスとどのように関わったのか、他のものに頼らず、イエスにのみ信頼してどれほど生きたか振り返ってみたいと思います。  そして、新しく始まる教会の暦の一年を新たな気持ちで始めたいと思います。 〔2006年11月26日 聖霊降臨後最終主日 キリストによる回復(降臨節前主日)説教〕