解放の時が近い。
2006年12月03日
ルカ21:25〜31
教会の暦では、今日から新しい1年が始まります。
教会の暦は、私たちの信仰生活にアクセントをつける役割を果たします。私たちの信仰生活も、ともするとマンネリ化する可能性がありますが、主日礼拝や週日の礼拝、教会の活動、その一つ一つに意味をつけ、毎年、その日がめぐってくると、キリストの生涯や、キリストの教え、救いの意味など、いろいろな面から、関心を強めたり、緊張したり、私たちに考えさせる役割を果たしてくれます。
二千年の教会の歴史の中に、私たちの信仰の先輩が残してくれた大事な遺産です。日々の信仰生活の営みの中で、大切に守っていきたいと思います。
さて、もう皆さんは、よくご存じですが、教会の暦の中心には、降誕日(クリスマス)と、復活日(イースター)という大祝日、大きなお祭りの日があります。クリスマスは12月25日、固定祝日と言いますが、イースターは、だいたい3月、4月の春の季節ですが、日が決まっていません。毎年変わりますので、これを移動祝日といいます。
間もなく私たちはクリスマスを迎えるのですが、その前の4週間、つまり4つの主日、この期間を「降臨節」といいます。この降臨節の主日に、「降臨節第1主日」「降臨節第2主日」というように、名前がついていています。
この降臨節には、2つのテーマがあります。
第1は、イエス・キリストの誕生を記念し、喜び、祝い、感謝すること、そしてその日を迎えるために心の準備をすることです。
第2は、終末について学び、キリストの再臨を待ち望むことです。
「再臨」とは、キリストが再び来られること。キリストがもう一度わたしたちのところに来てくださることを「キリストの再臨」といいます。降臨節には、この2つのテーマがあります。
私たちは、なぜキリストの誕生を祝うのでしょうか。たとえば、今年は、モーツアルト生誕250年ということで、あっちでもこっちでも、モーツアルトが記念され、その音楽が流されていました。私たちは、それと同じような意味でキリストの誕生を記念し、祝っているのでしょうか。
このシーズンになると、街中がクリスマスムードになりますが、イエス・キリストを救い主と信じないとか、この方を受け入れないという人たちには、モーツアルト生誕と同じかも知れませんが、私たちにとってはそうではと思います。それは、イエス・キリストという方が、私たちの「救い主」だからです。
私たちが、キリストの誕生を祝い、記念するのは、私たちの生きがい、生きる意味、心や魂の状態と大きくかかわっているからです。
ここで、一つ覚えていただきたい言葉があります。それは「終末論的意味」という言葉です。
「終末」とは、「世の終わり」ということです。聖書の中にはこのような「世の終わり」という言葉や考え方がたくさん出てきます。 マタイ、マルコ、ルカという福音書でも、パウロの手紙にも、「終わりの日」について述べられています。
弟子たちは、主イエスに、終わりの日はいつくるのか、その時には、どんなしるしがあらわれるのか、どのような形で現れるのかと尋ねています。
これに対して、主イエスは、おそれるな、あわてるな、惑わされるな、「世の終わりはすぐには来ない」と戒め、しかし、身を清め、つつしんでこの時を待ちなさい、その時は、神だけが知っておられることなのだ告げておられます。
聖書には、このような「終末思想」があふれています。言いかえれば、聖書が書かれた時代、初代教会では、旧約聖書の預言者たちの預言に従い、世の終わりの時がくる、その時には救い主が現れるという緊張感が張りつめていました。間近に、もうすぐにでもその時がやってくる、その時は近いと信じ、考えていました。
今日読まれた福音書は、まさにそのことが書かれた個所です。
主イエスは言われます。「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ21:25-28)
宇宙、天体に異変が起こる、エルサレムが破壊される。世の終わりの兆候が現れると言われます。
しかし、その時代から二千年が経ち、現在の教会では、初代教会の人たちが持っていた緊張は薄れた感じがします。
二千年の歴史を振りかってみますと、天変地変、地震、洪水、疫病、戦争、ありとあらゆる災害が、どの時代でも、どこででも、世界各地で起こっています。
昨夜のテレビでのニュースに報じられていました。
「先月30日、フィリッピン、ルソン島南東部を直撃した台風21号の影響で、アルバイ州のマヨン火山周辺では、火山灰などのたい積物が大雨によって泥流となり、ふもとの町や村を襲いました。フィリピン政府によりますと、この泥流による犠牲者はさらに増え、これまでに303人が死亡、293人が行方不明となっています。さらに、台風で被災した人々の数は、ほかの州も含めて80万人近くに上るとしています。現場では現在、再び雨が降っており、幹線道路が泥流で寸断されている場所もあることなどから、捜索活動は難航しています。現地には食糧や医薬品の支援も届いておらず、被災者からは本格的な救援を求める声が上がっています。」
そのニュースの中で、泥だらけになった一人の女性がインタビューに答えて、「世の終わりが来たと思った」と語っていました。ほんとうに心が痛みます。
このようなことが限りなく繰り返されています。
現在でも、世の終わりというものが、いつ来るのか、どのようにして来るのか、わかりません。しかし、終わりの日などないと言い切れるるでしょうか。昔は宗教家がしていたことを、現在では、宗教家よりも科学者が、あらゆる分野で警鐘を鳴らしています。自然界のバランスが崩れています。自然環境の破壊が、温暖化現象を起こし、予想がつかないようなことが起こると言います。どこかで戦争が起こり、核兵器や化学兵器によって、人類が滅びてしまうこともありえます。宇宙から隕石が飛んできて地球にぶつかるとか、SF小説の世界になってしまいますが、しかし、人類や多くの生物が死に絶えて来たことも歴史的な事実です。現代人の誰でもそういう意味で、恐怖や不安を感じています。
この世に終わりがあとすれば、それはいつか、どのようにしてくるのか、どんなことが起こるのか、わたしたちにはわかりません。
この世の終わりの問題だけではなく、わたしたちの、一人ひとりの人生には、かならず終わりがあります。今、このようなことを考えている私にもかならず終わりがあります。それは誰でも知っていることなのですが、あまり考えたくない、もっと先のことだと思っています。しかし、これは、それも、いつ、どのようにしてかはわかりませんが、これだけは誰に対しても平等にやってきます。これほど確かなことはありません。
脅かすわけではありません。しかし、この世にも、私たち一人ひとりにも、「終わりがある」ということを知らなければなりません。その上に立って、「今」を考えることが大切です。終わりがあるなどと考えたくもない、考えないというのと、終わりがあるということをはっきり認識して「今」を考えるのとは、生き方が変わってくると思います。「終わり」から今を見直したとき、私たちの世界、社会、そして私たち、自分自身の生き方は、このままでもいいのでしょうか。
私たち現代人は、科学の力や知識にのみ頼って、そこに救いがあるように考えています。これに対して、聖書がいう「終わりの時」を考えるということは、神が天地を創造し、神が人をこの世に生まれさせ、神が生かし、神がその命を取られるという、神が、私たちを支配されるという信仰の上に立って、「終わりの時」を見ようとすることです。 その時は、神のみがご存じです。それはどのようにして来るのか、それも神だけが知っておられます。神が「終わりの日」をお定めになるからです。
「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(ルカ21:31)
主イエスは、その「時」は、人の子が来る時、神の国が来る時と同じだと教えられます。
別の言葉でいいかえますと、私たちは、自然界に生きています。自然の法則、大きな自然の営みの中で、目で見える、耳で聞こえる、体で感じる世界に生きています。このような自然が支配する世界に、自然を越えた力、超自然の力が介入する「時」、すなわち、目に見えない超自然の世界におられる神が、私たちが住む自然の世界に、突然、介入してこられます。自分自身を顕そうとされることがあります。
自然界にあって、肉体的にも精神的にもがんじがらめになっている私たちに、そこから解き放つために手がさしのべられます。
「あなたがたの解放の時が近いからだ。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」
神は、その独り子をこの世にお与えになりました。罪と断絶のはざまでうごめく私たちを解放するために、神はその独り子をお与えになりました。解放の時が近い、神の国が近づいていることを悟りなさいと教えられます。二千年前にキリストはこの世に生まれました。
しかし、私の、わたしたちの心にキリストが生まれなければ、その時はまだ来ていません。
私たちは、まもなくクリスマスを迎えます。
〔2006年12月3日 降臨節第1主日 説教〕