主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
2006年12月14日
ルカ3:1〜6
教会の暦でいう「降臨節」というシーズンに入って、2回目の主日を迎えます。主のご降誕を待つ、クリスマスを迎える心の準備をする時です。
私たちがクリスマスを迎えるということは、私たちが誰かの誕生日を覚えてお祝いするというのとは、少し違います。愛する人の誕生日を祝って喜ぶということは、生きている喜び、この世に生まれて来た喜びを共にするという意味で大切な意味があるのですが、クリスマスは、そのことに加えてさらにもっと大きな意味を私たちに示しています。
クリスマスを迎えるために、私たちの心の準備に何が必要か、どのような思いでキリストの誕生を迎えるのか、考えてみたいと思います。
今日の特祷を見ますと、「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者を遣わされました。その警告を心に留め、罪を捨てる恵みをわたしたちに与え、贖い主、イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えることができますように。」と祈ります。
そのことを聖書に見ますと、今日の福音書では、ルカはこのように伝えています。
ローマの皇帝ティベリウスが皇帝の位に就いて15年目、ポンティオ・ピラトがユダヤ地方の総督で、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主であり、その兄弟ヘロデ・フィリポがレバノン地方とダマスコ南部の地方の領主、リサニアがダマスコ北部地方の領主であった時、そして、エルサレムの神殿では、アンナスとカイアファとが大祭司であった時のことでした。
神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降り、神の言葉を預言せよという命令が与えられました。
そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、人々に、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
これは、預言者イザヤの書(40:1-5)に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
ヨハネは、「人は皆、神の救いを仰ぎ見ることになる、そのために主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」と、叫んでいたのでした。
このヨハネは、ヨルダン川で洗礼を授けていたので「洗礼者ヨハネ」と言われます。また、主イエスが人々の前に姿を現される前に現れ、その道を備えよと説いたので「先駆者ヨハネ」とも言われ、旧約時代の預言者として「最後の預言者」とも呼ばれます。
洗礼者ヨハネが説いたメッセージの中心は、
第1に、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を受けよと宣べ伝えることにありました。
そして、第2に、「人は皆、神の救いを仰ぎ見ることになる、そのために主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」というイザヤの預言が今、実現しようとしていることを宣べ伝えました。
「人は皆、神の救いを仰ぎ見ることになる。」これこそが、人々が待ち臨んでいる、切に切に願っている幸せへの道です。そのために「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる。」神の救いをもたらす方を迎えるために、道を整え、曲がった道を真っ直ぐにし、谷や山はならされて平になる。この方を迎えるために、あなたがたの心の荒れ地を耕せ、道を開けよ、心を整え、準備せよと、ヨハネは叫びました。
私たちには、イザヤが「仰ぎ見ることになる」と預言し、洗礼者ヨハネが指さしている方が、イエス・キリストであることがわかります。そして、この方をお通しする道とは、お迎えする道とは、人々の心の状態であり、クリスマスを迎えようとする私たち自身の心の状態です。
曲がりくねって、ずたずたになった道、石や木の根でごつごつとした道、山あり谷ありで、でこぼこの道、これを整え、これを真っ直ぐにして、このい方を迎える準備をせよというのです。
私たちの心の整地をする、鍬やスコップで石や土を掘り起こし、曲がった道、でこぼこの道を真っ直ぐにするということは、それは、罪の赦しを得させるために悔い改めるということです。
私たちは、よく「悔い改める」とか「懺悔する」と言いますが、真剣に、ほんとうに「悔い改め」「懺悔」ができているでしょうか。
聖書が言っている「悔い改め」とか「懺悔」というのは、単に、自分の今の生活や過去の生活を振り返って、不道徳な(悪いことをした)行為や、人を傷つける言動を思い出して、反省し、もう二度とそんなことはしませんと誓うことだと思っていることはないでしょうか。私たちは、跪いて手を組んで、懺悔のお祈りをする時、具体的に何を思い、何を祈っているでしょうか。その懺悔の祈りそのものがちゃんと的を射たものかどうか考えてみなければなりません。ほとんどが人と人との関係のことや、自分のことを反省することだけが、悔い改め、懺悔だと思っているのではないでしょうか。
言いかえれば、そこには、「神との関係」どうなっているのか、そのことが悔い改めの内容になっていないということではないでしょうか。神のことなど忘れて生活している、神を神としない、神を裏切る、自分が神になってしまっている、神の愛を忘れ、神なんていらないと、神に対する自分自身の姿勢を振り返り、そのことに対して、罪を感じ、その罪を悔いる、懺悔するということができているでしょうか。
アメリカの女性の文化人類学者で、ルース・ベネディクト(1887〜1948年)という人がいました。第二次世界大戦の時、米国では、戦争の相手国である日本について徹底的に研究していました。その時に集められた学者の一人で、戦後、1946年に「菊と刀」という本を出版しました。日本語でも翻訳され、賛否両論話題を呼んだ書物だったと思います。
その中で、ルース・ベネディクトは、日本人の文化を「恥の文化」と呼び、西欧人の文化を「罪の文化」と呼んで、これを対比させていました。これには多くの反論が出されているのですが、しかし興味深いものがあります。
キリスト教文化を持たない者には、ほんとうの「罪」がわからないと言います。
善悪を意識することも、罪の意識も、「恥」ということが中心で、人と人との関係だけで判断されてしまいます。人に見つかったらどうしよう、あの人から何と思われるだろうか、何といわれるだろうか、ひいては自分が住む社会の中での自分の立場や面子が気になります。辱めを受ける、恥ずかしいということが、いつも心の中心にあります。
そのことを裏返せば、人に見つからなければ、誰も自分のしているいることや、しないことが、人に知られていなければ罪の意識を持たない、世間体が保てれば罪の意識もない、それほど悔い改めや懺悔の必要もないということになります。また、同じ問題をかかえても、人によって、良心の呵責を強く感じる人も、何にも良心の呵責を感じない人もいます。
これは、日本人だけの問題ではなく、東洋人にも西洋人にもあることだと思います。
ほんとうに自分で自分の罪を意識するということと、恥や、世間体や、人の評価を意識することとは違います。
キリスト教では、人が見ていても見ていなくても、神が見ている、神の存在と私の関係の中で、罪ということが問題になります。
何のために、悔い改めるのか、なぜ懺悔するのか。それは、私たちの魂が、心が救われるためです。自分の罪が、赦されるべき方によって赦されることがなければ、私たちの心は苦しい、ほんとうの意味での救いはありません。
人が見ていても見ていなくても、私たちに罪があります。それは、神との関係の中にある罪です。神と私たちとの関係が損なわれていることからくる罪です。
神のみ心に反し、神に背いている、神の命令を聞こうとしない、いや、神を神としない、神など必要としないと思い、また、いつのまにか自分自身が神になってしまっていることが、それが問題なのであって、そこに、私たちの罪の根源にあります。人間と人間の間で起こる罪の行為は、このもっとも根源にある神との関係が正しくないことから起こってくる副産物だと言えます。
では、どうしたら、私たちの神との関係の罪は赦され、私たちの心が解放されるのでしょうか。私たちの魂は救われるのでしょうか。
「人は皆、神の救いを仰ぎ見ることになる。」これこそが、人々が待ち臨んでいる、切に切に願っている幸せへの道です。
そのためには、神がこの世に送って下さる「救い主」を受け容れることです。それ以外に方法や道はありません。
ヨハネ福音書(14:6)は、このように伝えています。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』
「わたしは道である。わたしを通らなければ、父、すなわち神のもとへいくことができない」と言われる方が、今、私たちの所に来られます。その方の道とつながるために、私たちの心の道を整えなければなりません。曲がりくねって、ずたずたで、でこぼこで、障害物がいっぱいあふれている、神以外のものが、私たちの心を満たしています。
私たちの心の道を真っ直ぐにしなければなりません。それが、私たちが「悔い改め」「心から懺悔」するということなのです。
私たちは、間もなくクリスマスを迎えます。
「主イエスよ、来てください」(ヨハネ黙示録22:20)。新約聖書のこの最後の言葉が、私たちのクリスマスを迎える合い言葉です。 神への関係を正し、わたしたちの心の道を整えて、「主イエスよ、来てください」と心から唱えたいと思います。
〔2006年12月10日 降臨節第2主日(C年)説教〕