主イエスと洗礼者ヨハネ
2006年12月17日
ルカ21:25〜31
クリスマスを迎えるシーズン「降臨節」に入って、3回目の主日を数え、あと8日で主イエスの誕生を記念する日を迎えます。
先週の主日は、キリストを迎える準備として、旧約聖書の預言の成就として、主の道をまっすぐにする者、主の道を整える者として、洗礼者ヨハネが現れ、人々に悔い改めを説き、ヨルダン川で洗礼を施していたという聖書の個所が読まれた。私たち自身、漫然とキリストの誕生を記念する日を迎えるのではなく、心の準備、主を迎え入れるにふさわしい悔い改め、謙遜、謙虚さを持って、心から主が来られるのを待ち望むことが必要であるということを学びました。
そして、本日の福音書は、先主日の福音書、ルカによる福音書の続きが読まれました。
今読みました福音書にもう一度目を通していただきたいと思います。
7節から14節までは、洗礼者ヨハネの教えの内容が紹介され、これを聞いた人々の反応が記されています。
洗礼者ヨハネは、悔い改めよ、神の審きが近くまできている、だから、悔い改めにふさわしい実を結べ、口先で言うばかりではなく、実行せよ、そのような生き方を改めよと叫びました。
これを聞いた人々は、「それではわたしたちはどうすればいいのですか」とたずねました。
そして、後半の15節から18節までは、この洗礼者ヨハネが主イエスのことを紹介しています。ただ紹介するだけではなくて、自分との関係を示し、その方はどんな方であるかということを述べています。
今日は、とくにこの後半の、主イエスと洗礼者ヨハネとの関係について考えてみたいと思います。
いつも繰り返して言いますが、主イエスの時代のその当時のユダヤの人たちの考え方や時代の背景について知らなければ、洗礼者ヨハネのことも、主イエスのことも、理解することができません。
当時のユダヤの人は、熱烈に「メシヤ」を待ち望んでいました。メシヤというのは「救い主」「救世主」ということです。
当時のイスラエルは、ローマ皇帝の支配下に置かれ、税金は吸い上げられ、生活は困窮していた。そして何よりも我慢できなかったのは、自分たちの先祖が導かれ従ってきた神、この唯一である神によって選ばれ、救いが約束されている神によってのみ支配されるべきユダヤ民族が、ローマ皇帝という異邦人、異教徒の支配を受けるということは、到底許されることではありませんでした。宗教的、政治的な圧迫、経済的な困窮、さらに、腐敗しきったユダヤの王、偽善者的な宗教家、堕落した祭司たちやユダヤ教の律法学者たち、その下で、羊飼いのいない羊の群れとなったユダヤの人々には、彼らにできることは、ただ旧約聖書に預言れているようなメシヤが現れて、自分たちを救ってくれることを待つのみでした。かつて、千年も昔、ダビデ王が現れて、イスラエルを統一し、強い軍隊を率いて近隣の国々を蹴散らしたように、我々を救ってくれる救い主、キリスト、メシヤを、神が遣わしてくれと確信していました。このようなメシヤ出現を待望することが、彼らにとって唯一の希望であり、幸せになる方法だったのです。
しかし、その方は、いつ、どこに、どのような姿で、どのようにして現れるかわかりません。いろいろな噂やデマに惑わされ、右往左往していました。偽キリスト、偽預言者と見られるような者たちも横行していました。
そのような中に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスが現れたのでした。
洗礼者ヨハネの方が、主イエスより少し先に現れ、荒れ野で人々に宣教活動を始めました。その姿、形は異様で、髪の毛は伸ばし放題、らくだの毛衣を着て、皮の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ、そして、厳しく人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川で洗礼を行っていました。 不道徳な行為、悪事を行っている人たちを糾弾するものであった。当然、この人こそメシヤに違いないと思って、ついて歩いていた人たちも多くいたわけで、洗礼者ヨハネにも多くの弟子たちがいたことが聖書に記されている。べつに名前を付けたり、組織があったりしたわけではありませんが、ヨハネを中心とした「ヨハネ教団」と呼ばれるような集団があったようです。
一方、この洗礼者ヨハネのすぐ後に、ガリラヤのナザレから出てきた主イエスが、人々の前に姿を現したました。主イエスが行う奇跡に人々は驚き、今まで聞いたことがないような力強い教えに心打たれました。主イエスも、弟子たちを召しだし、彼らを教育訓練し、各地に派遣しました。弟子たちをはじめ、多くの人たちがついて歩いていました。そこには「イエス教団」といわれるような集団ができていたと思われます。
洗礼者ヨハネは、まもなく領主ヘロデに捕らえられ、牢に入れられ、殺されてしまいました。
ユダヤの人々の間では、洗礼者ヨハネか、ナザレのイエスか、本当のメシヤは誰かを巡って迷いや論争が絶えませんでした。
わたしたちの手にある聖書、とくに新約聖書は、初代教会、原始キリスト教会の中で書かれ、成り立ったものですが、その教会の内部でも、このような疑問や質問があり、それに対して、当時の教会では、とくに主イエスと、洗礼者ヨハネと一緒にして比べられるものではない、比べものにならないのだという、主イエスの優位性をはっきりしておかねばならなかった事情もうかがうことができます。
主イエスと洗礼者ヨハネは、どこが違うのでしょうか、それが、ヨハネの口を通して語られています。
第1に、ヨハネは「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」(3:3) 後期のユダヤ教、主イエスの時代の以前から、洗礼という習慣がありました。悔い改めをあらわすために、水に浸けて洗い、清めを行う儀式だった言われます。水の持つ性質から古くからそのような習慣がありました。ヨハネが求める「悔い改め」というのは、過去を問題にします。何かをしてしまったこと、何かをしなければならないのにしなかったこと、過去の思いや言葉や行いが問題にされ、指摘され、反省と改善が求められます。悪いことをしたという自覚を持つこと、自分で心から悪かったことを認め、神の赦しを願うことでした。ヨハネが勧めた洗礼は過ぎ去った過去に向かって求められるものでした。水でその罪を洗い清めることを求め、勧めていました。
これに対して、主イエスはどうだったのでしょうか。
主イエスについては、洗礼者ヨハネは、このように語っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(3:16)
洗礼者ヨハネの洗礼が、水の洗礼だったことに対して、主イエスの洗礼は聖霊と火で授ける洗礼でありました。
洗礼についてのイエスの教えは、ヨハネの福音書にはこのように言記されています。
ニコデモという議員との対話の中で、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と。(3:5)
主イエスは、ここで、かつてのユダヤ教が持っていた洗礼の儀式以上の意味づけをしておられます。水という物質を象徴的に用いることにおいては、洗礼者ヨハネと同じですが、「水と霊によって生まれかわる」という言葉は、そこに、全く新しい意味が与えられています。 「霊」を受けることによって、生きるものになったという、旧約聖書にもある特別の意味がここに加えられています。
神が、アダムを創造されたときに、土のちりで人間のかたちをつくり、その鼻に息を吹き込まれました。するとそれは生きるものになったとあります。息とは霊と同じ意味をもつ言葉である。死んだようになっているものが、神の霊を受けることによって、生きるものになります。聖書にはそのような記述は数多くあります。
ペンテコステの朝、弟子たちに聖霊が降って、彼らは生きるものになった。死んでいた者が生きる、死んだようになっていた人たちが、神の霊を受けて、生まれ変わったように生きるものとなりました。
それは、過去のことにこだわって生きるのではなく、これから、今から先、将来、未来に向かって生きる、生かされていく、そのために洗礼を受けるのです。水と霊によって洗礼を受けるのです。
このように、過去に向かって行った行為の悪を指摘するヨハネの洗礼と、未来に向かって新しく生まれ変わって生かしていく、希望をもって生かす洗礼とは、大きな違いがありました。
第2に、「審き」ということに対して、洗礼者ヨハネの立場と主イエスの立場には違いがありました。
洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことを民衆に求め、実を結ぶことのない木は切り倒されるとせまり、神の審きがすぐそこに来ていることを述べました。さらに、ヨハネはイエスに対しては、自分の後に来られる主イエスは自分で箕を持ち、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる方であると紹介しています。
神の審きについて、ヨハネは、民衆に解説し理解させる役割にすぎません。したがって「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことを勧めます。神と人々の間に立つガイド役にすぎません。
これに対して、主イエスはご自身がきれいに掃除する方であり、選り分ける方であり、選ぶ方であり、焼き尽くす方であり、審く方だというのです。すなわち神そのものであることを指し示している。木の根本に斧が置かれている状況を説明する方ではなく、斧を手に取る人、斧をふり下ろす方であると、主のことを紹介しました。
第3に、洗礼者ヨハネは、主イエスを「わたしよりも優れた方」であると明言し、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」者として、自分を低く紹介しています。尊い方の前に跪き履き物のひもを解くのは、奴隷の仕事でありました。最も身分の低い僕の仕事でありました。
このように、ヨハネは、イエスを紹介し、自分の後に来られる方の道を整え、人々に、イエスを受け入れる準備をしたのです。
わたしたちの準備はどうか。見えるかたちの準備に追われて、来られる方は、どのような方か、誰が来られるのか、ほんとうに心の準備ができているか。 洗礼者ヨハネが指さす方を、見つめたいと思います。
〔2006年12月17日 降臨節第3主日(C年)説教〕