わたしにも、目を留めてくださる神
2006年12月24日
ルカ1:39〜55
クリスマスを迎える準備をする期間、降臨節(アドベント)も4週目となり、最後の主日となりました。教会のアドベント・キャンドルも、毎週一本ずつ灯を増やしていき、今日は、4本全部に、灯がつけられました。
そして、今年は、この降臨節第4主日の夕方には、降誕日前夕、クリスマス・イヴを迎えることになり、明日は、降誕日、クリスマスを迎えます。
教会の礼拝に使う「祭色」も、降臨節の間は、主のご降誕を待ち望む、心の準備をするために謹みをあらわす紫色でしたが、今日の夕方からは、喜びと感謝とさんびをあらわす白色に変わります。
これに合わせて、私たちも、主を待ち望む心の準備の気持ち、「どうぞ、お出でください」という気持ちから、「よくお出でくださいました」と、喜びと感謝に満たされた気持ちに、変えられ、切り替えられていきます。
その直前、降臨節の最後の大切な主日ですから、私たちが主を迎えるために大切な心の準備について学びましょう。
私たちがよく知っている聖書のクリスマス物語の登場人物の中心は、主イエスの母、マリアです。
このマリアについて考えてみますと、この方ほど、クリスマスを境にして、人生が変えられたという人は他にいません。
マリアは、ガリラヤ地方のナザレという小さな村に住んでいた、結婚前のごく平凡な女性でした。この女性が、突然、「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を生むでしょう」と告げられました。 いいなずけのヨセフと共にベツレヘムに行き、そこで男の子を産みました。その子はイエスと名づけられ、そして、30数年後には、神の子、キリストと呼ばれ、十字架につけられて死んでしまうのです。
マリアは、この子を産み、幼年期、少年期とこの子を育て、青年期もずっと見守ってきたのですが、ある時から、日夜、多くの人々に取り囲まれ、あれよあれよという間に、マリアからは遠くの方へ行ってしまいました。
たぶん、マリアは、母として、どうなることかと心を痛めながら、心配しながら遠くから見守るより仕方がありませんでした。ところが、その愛する子が、目の前で、捕らえられ、裁判にかけられ、小突き回され、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、重い十字架を背負い、そして、十字架につけられて、息を引き取りました。
この時も、母マリアは、なすすべもなく、ただこの光景を見つめ、たたずんでいることしかできませんでした。自分の心臓に剣が刺し通される思いで、これを見上げていました。
その後、マリアはどのような人生を歩んだのか、聖書には記されていません。60歳(他の伝承では72歳とも言われる)に、オリブ山のゲッセマネ近くでヨハネに看取られて世を去ったと言われますし、別の説では、迫害を逃れてエフェソの地で亡くなったとも伝えられています。
平凡な女性の一人であったマリアは、神の子を産んだ母であるということから次々と伝説が生み出され、マリアの死に際しては、天使に見守られ、昇天したと言われ、「被昇天のマリア」と呼ばれようになりました。さらに、神の子イエスの母として、主イエスと人々の間に立ってとりなしをする方と慕われ、そしてマリアに神性を求めてあがめられ、マリア崇拝という信仰が、広く人々の中に伝わりました。
今日の福音書には、「マリアの賛歌」と呼ばれる個所が記されています。
マリアは、親戚にあたる祭司ザカリアの妻エリサベトを訪ねました。エリサベトも身ごもっていましたが、このエリサベトが、マリアに言いました。
「あなたほど女の中で祝福された方はいません。あなたの胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主となる方のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、わたしのお腹の中の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは、かならず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
これに答えて、マリアが述べた言葉というか、歌った言葉というのが、「マリアの賛歌」と言われるものです。
マリアは言いました。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
しかし、よく考えてみますと、その時のマリアは、心から神を賛美できるような心境ではなかったはずです。
青天の霹靂というか、突然、天使が現れて、「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むであろう」と告げられ、「神には何でもできないことはありません」と言われ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えて、これを受け入れました。
びっくり仰天し、驚き、恐れ、不安のために頭の中が真っ白になったに違いありません。その後で、冷静になり、われを取り戻すとともに神への信頼を回復し、従順にこの言葉を受け入れました。
起こってはならないこと、起こりえないことが、この女性の上に起ころうとしているのです。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」という、神への賛美はふつうであれば、言葉となって口に出てこない心境です。
それは、口先だけではなく、表面的なことではなく、頭の中だけではなく、全身全霊、これから生きるであろう生涯、生命をかけたぎりぎりのところで、神を賛美し、告白している言葉なのです。
宗教改革者マルティン・ルターは、その著書「マリアの賛歌」の中で、「このような喜びで神を賛美するのは人間の業ではない。自分をあがめることしかできない人間が、このような賛美をなし得るのは、奇跡であり、われわれを越えている」と述べています。
「わたしの魂は主をあがめ」の、この「あがめる」とは、ギリシャ語でメガルノーと言いますが、これは、「大きくする」「拡大する」という意味で、私たちが使っているメガホンとか、メガトン(1トンの100万倍)とかいう言葉の語源になっています。
マリアは自分のことを「身分の低い主のはしため」ですと言い、身分的に価値を持たない奴隷の召使いにすぎない、もっとも小さいものとし、そして、神を「大きく」すると歌っています。
このような信仰と賛美の声が出てくる理由は、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と言います。
神が心にかけてくださいました、目を留めてくださいました、主が心にかけてくださいました、だから、わたしの魂は主をあがめ、主をたたえます、と言います。
私たちが住む社会にも、ある人がある人に「目をかける」とか「心にかける」と言います。面倒を見るとか、取り立ててやるとか、そういうことがあります。しかし、私たち人間の社会では、いつもどこかに打算が働いたり、その裏に利害が見え隠れしたりすることがよくあります。
しかし、主がかえりみてくださる、主が心に留めてくださるということには、そこには打算や裏切りはありません。
反対に、人間の社会の誰もが注目しないような人を、主はかえりみてくださいます。もっとも弱い者、虐げられた人、無視されたり疎外された人、社会的にもっとも小さい人たちと言われる人びとに目に留め、心にかけ、かえりみてくださいます。
マリアには、地位も、身分も、財産もありません。神によって選ばれる特別の資格があったわけでもありません。神は、そのようなマリアをあえて選んでくださったのです。そこに神のみ心があり、神の選びがあります。
マリアは、たとえその後の自分の身がどのようになろうとも、そのことのゆえに、神を賛美し、感謝をささげる、いや、賛美し、感謝せずにはいられないのです。
私たちは、クリスマスを、もうすぐ間近に迎えます。クリスマスは、イエス・キリストとの出会いの時です。
どのような人が、ほんとうの神との出会いを持つことができるのでしょうか。それは、マリアの姿勢に、マリアの信仰に学ぶことができます。
私たち一人ひとりは、それぞれに、誰にも言えない重荷を背負っています。そのために、淋しさもあれば、悲しみもある、恐れや不安もあります。誰も、わたしをかえりみてくれない、心に留めてくれない、わたしにかまってくれないと、嘆き、怒ったり、ぼやいたりすることがあります。神に感謝するよりも不平や不満を述べること、お願いすることばかりの生き方をしています。
その前に、忘れてはならないことは、神が私たちのような者にも、目をそそぎ、目に留めてくださっていることを忘れてはならないということです。
そのまなざしが感じられない。神のかえりみを受け取れないというのはどこに原因があるのでしょうか。マリアは、自分を低くし、徹底的に低くし、自分自身の小ささを自覚し、そして神をあがめました。神こそ偉大、神こそ大きな方であることを言い表しました。私たちが、たとえどのような状況の中にあっても神を賛美することができるようになるためには、その「謙遜さ」をもって神を仰ぐこと、神をほんとうに知る第一の条件です。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」
このマリアの賛歌を、私たちの神にささげる讃歌としながら、歌いながら、主のご降誕をお迎えいたしましょう。
〔2006年12月24日 降臨節第4主日(C年)説教 聖アグネス教会〕