言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

2006年12月26日
ヨハネ1:1〜14  クリスマスおめでとうございます。  神が、私たちに、神の御子、神の独り子をお与えくださり、私たちは、この方によって、神の愛を知り、また私たちが互いに愛し合うことができるようにして下さいました。  神が、私たち一人ひとりに、あふれるばかりの恵みと真理と愛を与えて下さったことを、心から感謝し、神に賛美をささげましょう。  皆さんは、よくご存じのことですが、私たちが持つ新約聖書には四つの福音書があります。イエス・キリストの生涯と言いますか、その宣教の働きと教えについて書かれています。主イエスの伝記と言いたいのですが、時間の経過や、場所の特定も必ずしも歴史的な事実として正確なものとは言えません。「イエス・キリストという方はどのような方であったか」ということを初代教会の信仰の目でとらえ、書き記したものと言えます。  この四つの福音書のうちで、マルコによる福音書は、いちばん最初に書かれた福音書と言われますが、ここには主イエスの誕生については何も記されていません。一言も触れられていません。  その次の時代に書かれた、マタイによる福音書とルカによる福音書には、それぞれにクリスマス物語が記されています。  マタイもルカもマリアは聖霊によって身ごもったとありますし、ベツレヘムの馬小屋で、男の子がお生まれになったとはっきりと記されています。  さらに、マタイには東の方から占星術の博士たちがはるばる星に導かれてベツレヘムに来て、馬小屋のイエスを礼拝して帰って行ったという物語があります。  ルカの福音書には、ザカリアとエリサベツの話があり、荒野で野宿していた羊飼いのところに天使が現れ、主イエスの誕生を知らせ、彼らもすぐに主イエスを拝みに来たという物語が記されています。  ところが、西暦100年頃、主イエスが亡くなって70年ごろに書かれた、いちばん後に書かれたと言われるヨハネによる福音書には、具体的な主イエスの誕生物語は記されていないで、まことに抽象的な表現の仕方で、キリストがこの世に来たということを書き記しています。  もうすでに、その当時は、キリスト教は、ギリシャ文化を持つ人たちのところに広まり、いわゆるギリシャ哲学や文化の影響を受けた人々にも理解できるように編集され、このような形で書かれたものであると言われています。  今、読みました福音書は、その「ヨハネによる福音書」の冒頭の部分ですが、毎年、クリスマスの当日には、聖餐式の福音書として、かならず読まれる個所です。マタイやルカの福音書にあるような物語のかたちではありませんが、神の子キリストがこの世に来られたということの「意味」を私たちに教えています。 ヨハネの1章1節から5節に、  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。  「初めに〜ありき」などという言葉を使いますが、この聖書の言葉の文語訳が使われています。それほど有名な言葉ですが、ヨハネは、この書き出しの言葉で、主イエスという方がどのような方であるかということを現そうとしています。  旧約聖書のいちばん最初の書、創世記の最初は、  「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」という言葉で始まります。  神が天地を創造された様子を、このように描いています。真っ暗闇で混沌とした状態、何の秩序もない闇の深い淵の状態に向かって神は「光あれ」と言われました。神のこの言葉によって、宇宙の創造が始まったというのです。光ができて光と闇が分けられ、昼と夜が出来たとあります。この「光あれ」こそ、神の言です。  私たちも言葉を使います。人間が、他の動物と違うところは、言葉を持っているからだと言われます。言葉は、私たちの意志や考え伝える道具ですが、私たちは言葉でものを考え、言葉で自分の思いをあらわすのですから、言葉は、私たちの意志、思い、心そのものです。言葉を交わすことによって私たちは人間の関係を保ちます。 神が、「光あれ」と言われ、言葉を発することは、神の意志が示され、神の考え、神のみ心が現されたということです。  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という言は、神が「光あれ」と言われ、それによって、天地が創造された、その言葉と同じ言葉です。  すべてのものが、神によって創り出される前から、神の意志があり、神のみ心がありました。すべてのものが、神の言によって創造され、存在させられたのです。  神の言は、神の意志、神の考え、神のみ心そのものであり、神の言は、神そのものなのです。  そして、14節に、「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」と記しています。神の意志であり、神の思いであり、神のみ心である言が、肉体となった。この肉体とは、私たちが持つ肉体と同じ肉体です。  目に見えない神、神の意志、神のみ心は、私たちと同じ肉体を取って、私たちの地球上に、私たちが住む同じこの地上に、私たちが織りなす人間の歴史の中に、見える姿を取って来られたのです。そして、私たちの間に宿られたのです。  こんなことは、人類が始まって以来始めてのことであり、この出来事によって、神を見た人と、神を見たことがない人にはっきりと分かれたのです。  ヨハネが受け取った主イエスの誕生の出来事は、このような「言」で表現されました。  言は神である。イエス・キリストは肉体となった言である。ゆえにイエス・キリストは神である。このような三段論法で、主イエスとはどのような人なのかをあらわしています。  ギリシャ人には、旧約聖書の知識の下地がありません。彼らにはメシヤ、キリストを待ち望む思想や信仰もありませんでした。ユダヤ人が大事にした、イスラエルの歴史や預言者の言葉に基づいた主イエスの誕生の物語よりも、このような理性に訴える方法がとられたのだと思われます。    さらに、10節〜13節に次のように述べます。  「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」  この世は、すなわちあらゆる被造物、私たち人間も含めてすべてのものは、神によって創造され、存在させられているのですが、被造物とくに人間は、神の言であるイエス・キリストを認めませんでした。  神の言は、肉体を取って、まず、神が選ばれたイスラエルの民のところへ来たのですが、この民は、この肉体となった神、イエス・キリストを受け入れませんでした。それどことか、彼を捕らえ、鞭打ち、侮辱を加え、十字架につけて殺してしまいました。  しかし、人々の中には、この肉体を取った神の言であるイエス・キリストを受け入れた者たちもいました。  しかし、この肉体を取った言であるイエス・キリストは、ご自分を、ご自分の名を信じた人々には神の子となる資格を与えました。 イエス・キリストを受け入れた人々に、神の子となる資格が与えられたのは、生まれや血筋や、人間の努力や欲望や意欲によって与えられたのではなく、神によって生まれかわったのです。  ほんとうに、神に出会う、神を知る、神を受け入れるということは、生まれや血統や学識や教養や財産の有無によるものではありません。それは神の側から、押し出され、神によって生まれたから神の子となる資格が与えられたのです。  私ごとを言って申し訳ないのですが、私は、20歳の時に洗礼を受けました。小さい時に、近所の教会の日曜学校に行っていた記憶もあるのですが、長続きしませんでした。  高校生の時に、公立の高校だったのですが、ギデオン協会の無料の聖書がもらえるというので、友だちについて行ったことがありました。日本語と英語が半分ずつ印刷された聖書が欲しくてついていっただけでした。その帰り道、私を誘ってくれた友だちが、片山くんというのですが、熱く神のことを語ってくれました。しかし、そんな神など信じるやつ、頭がおかしいのではないかと、そいつの顔をじっと見つめたことを覚えています。  教会の掃除を頼まれて、アルバイトのために、はじめて教会の門をくぐりました。クリスマスに誘われ、青年会の集いやハイキングに誘われ、牧師と話す機会もありました。  いつも、神などない。神は人間が造りだしたものだ。幻想だ。観念だなどと、反対するために教会に通っていました。  しかし、今、70歳、自分の人生を振り返ってみますと、不思議なことに、このように神について語り、証しする側に立っています。私が神を捕らえたのではなく、私が神によって捕らえられていたという実感がします。目に見えない手が私の首筋をつかんで、引き寄せられたような気がします。自分の意志や努力によってではなく、神によって生まれた、生まれさせられた自分が、今ここにいることを感じます。そして、感謝せずにはいられません。  今、このすぐ後、引き続いて洗礼式が行われます。私たちが、生まれたままでは持っていないもの、肉体を取った神の言を受け入れ、イエス・キリストの名を信じることを言い表して、神の子とされようとしています。  そして、私たちは、私たちの群れ、教会のメンバーの一員として迎え入れることができますことを、感謝したいと思います。ともに祈りたいと思います。   今日、言は肉となって、わたしたちの間に宿られました。     〔2006年12月25日 降誕日(C年)説教〕