「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
2006年12月26日
ルカ1:26〜38
聖書に出てくる誕生物語は、いつ読んでも、何回読んでも、私たちの心を打ち、私たちの心をほのぼのとさせます。
この誕生物語は、長い教会の歴史の中で、語り継がれ、絵画や彫刻の題材になり、文学や演劇、映画の題材としても数え切れないほど取り上げられています。
とくに、このクリスマスの日には、世界中のどの教会でも、この聖書の個所が読まれ、イエス・キリストの誕生が祝われています。
聖書は、このキリストの誕生物語を通して、私たちに大切なことを知らせようとしています。そのことについてごいっしょに考えたいと思います。
今から約二千年昔、イスラエルの国、ガリラヤ地方のナザレという村に、マリアというおとめが住んでいました。この人にヨセフという名のいいなずけがいました。
マリアのところに、天使が現れて「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むであろう」と告げられました。
マリアは驚きました。恐れと不安を感じ、そんなことはあるはずがないと言いました。しかし、「神にはできないことは何一つない」と言われ、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と言って、このことを受け入れました。
このことによって、マリアの人生は、ガラッと変わってしまいました。当時、この地方一帯で人口調査が行われ、すべての人々は故郷に帰って登録をすることが強制されていたため、いいなずけヨセフと共に、故郷であるベツレヘムに行き、その地の一軒の家の馬小屋で、男の子を産みました。どこの宿屋も故郷へ帰ってきた人々で満員で泊まるところがなく、辛うじて馬小屋に泊めてもらったとあります。
真っ暗な馬小屋、牛や馬や羊がうごめき、家畜の匂いが充満している、その中で、飼い葉桶に寝かされている産まれたばかりの男の子、その状景は、この子どもの将来、そして母親マリアの今後の姿を暗示する光景でした。
マリアは、その後、キリストの母、神の子を産んだ女、聖母マリアと呼ばれることになるのですが、その生涯は、母親として、女性としてほんとうにきびしい道を歩むことになります。
命がけで、いつくしみ、育んだ、この男の子イエスは、30歳になった時、人々の前に姿を現し、神の子として、キリストとして、教え、奇跡を行い、いつも多くの人々に囲まれ、あちこちの村や町を巡回していました。母マリヤからすると、自分からどんどんと遠いところに行ってしまいます。母親としては、ただ、はらはらしながら見守るばかりでした。そして、最後に、イエスはユダヤの役人に捕らえられ、引き回され、裁判にかけられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘で、十字架につけられ、殺されてしまいました。母として、ただ、その成り行きを見守るばかり、胸を掻きむしる思いでたたずんでいました。
かつて、シメオンという老人が、母に抱かれている幼子イエスを見て、マリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」予言しました。(ルカ2:34,35) その言葉の通り、マリアは、剣で心臓を刺し貫かれる思いで、十字架を見上げていたのでした。
この主イエスの母マリアの生涯や心中を思うとき、聖書の中の人物で、思い浮かべるもう一人の女性があります。
それは、旧約聖書の最初に登場する「アダムとエバの物語」に出てくるエバのことです。
神は、この世をお造りになりました。海も陸も、山も川も、すべての動物、魚、鳥もお造りになって、最後に人間アダムとエバをお造りになりました。神は、このアダムとエバをエデンの園に置き、どの木からでも木の実を取って食べてもよい、しかし、園の真ん中にある「善悪を知る木」からは取って食べてはならないとお命じになりました。この木の実を食べると、目が開け賢くなって神のようになると言われたのです。
アダムとエバは、その言いつけを守っていたのですが、ある時、蛇がでてきて、エバに言いました。「いいじゃないですか。目が開け、賢くなって、神のようになるとはいいじゃないですか」と誘惑しました。エバはこの蛇の誘惑に負けて、取って食べてはならない木の実を取って食べました。神の命令に背いたのです。そしてアダムにもこれをすすめ、アダムも神に背きました。
エバには、神の命令に従わなかった、神の命令に従えない私たちの「生まれたまま」の人間の姿があります。エバは、神の命令を聞いても結果的には神に反抗し、神から隠れ、責任を逃れようとしました。
第一のエバに対して、マリアは第二のエバと言われます。
第二のエバ、マリアは、神が遣わされた天使ガブリエルの声を聞いて、これを全面的に、無条件で受け入れました。神の前に立つ自分を「主のはしため」であると認め、どんなことでも、どうぞこの身になりますようにとすべてを神にゆだねました。
アダムとエバが、エデンの園から追放されてしまいましたが、これに対して、主イエスとマリアは、神の国を回復されたということができます。
17世紀のドイツの詩人アンゲルス・シレシウスはこのように歌いました。
神がわたしに永遠に祝福を与えてくれるとすれば
わたしはマリアでなければならないし
わたしから神が生まれなければならない
マリアが受けたのと同じ祝福を私たちも受けなければ、私たちはほんとうの幸福を持つことはできません。マリアが神の祝福を得ることができたことを、昔の物語の中の一つの出来事としてだけ理解し、受け取るだけでは、神の祝福を受けることができません。
今宵、私たち一人ひとりが、「わたし」が、マリアと同じ立場に立って、神の言葉に従うかどうか、神の言葉を受け入れるかどうかが問われています。
クリスマスは、神の言であるイエス・キリストに出会う時です。私たちの心が馬小屋となり、マリヤとなって、私たちの心にキリストが生まれることです。その時こそ、マリアと同じ神の祝福を受けることができます。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
皆さんの上に、主の祝福が豊かにありますように。
〔2006年12月24日 降誕日前夜キャンドル・サービス 説教〕