カナの婚礼でのしるし
2007年01月21日
ヨハネ2:1〜11
1 カナの婚礼における奇跡
今日は、顕現後第2主日です。神が、ご自分の方から、ご自分を現される、神が栄光を顕されるということを、心に覚えながら礼拝を守りましょう。
ヨハネ福音書では、主イエスの奇跡物語、主イエスが行われる奇跡の出来事を、たびたび「しるし」と呼んでいます。
ガリラヤのナザレから6キロほど北に行ったところにあるカナという町で、結婚式があり、主イエスは、弟子たちと共に結婚の祝いの席に招かれ出席しておられました。主イエスの母、マリアも、何かの関係で、そこに招かれいたのでしょうか、または当時のしきたりでお手伝いにかり出されていました。
ユダヤの結婚は、大勢の人が集まり、宴会が1週間も続いたといいます。
ところが、その席で、ぶどう酒が足りなくなるという事件が起こりました。せっかく招いたお客さんに出すぶどう酒が、宴会の途中でなくなるということは、その家にとって恥ずかしいことですし、あってはならないことでした。
台所でお手伝いをしていたのでしょうか、このことを知ったマリアは、主イエスのところに来て言いました。
「ぶどう酒がなくなりました。」
それを聞いて、主イエスは言われました。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
お母さんに対して、冷たいものの言い方、拒絶しているような言い方に聞こえます。ヨハネの福音書では、もう一ヶ所、同じような言い方をなさったことが記されています。
十字架につけられ、苦しみの中で、その十字架のそばに立っている母マリアに向かって、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われました。(19:26) 神との関係でだいじな務めを果たそうとなさる時、肉親の絆を越えて、神を見つめておられる姿勢をうかがうことができます。
しかし、母マリアは、主イエスを信頼しています。そこで、召使いに向かって、
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。
ちょうど、そこには、ユダヤ人が宗教的な清めに使う水を入れる石の水がめが6つ置いてありました。いずれも2メトレテスか3メトレテス入るものでした。1メトレテスは、39リットルとありますから、78リットルから117リットルも入る大きな水瓶です。 主イエスは、
「水がめに水をいっぱい入れなさい」
と言われました。召し使いたちは、言われたようにかめの縁まで水を満たしました。
主イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。その時、水はぶどう酒に変わっていました。召し使いたちはこれを運んで行きました。
宴会の世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をしました。
このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていましたが、世話役は知りませんでした。世話役は、花婿を呼んで言いました。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」それほで、美味しいぶどう酒に変わっていたのです。主イエスは、このように最初のしるし、最初の奇跡をガリラヤのカナで行われ、この結婚の祝宴を開いた家の困った状況を救われたわけですが、一方で、主イエスは、神の力を発揮し、神の子としての栄光を現されたのでした。
弟子たちは、この光景を見て主イエスを信じたと記されています。
2 わたしの時はまだ来ていません。
このように、水を良質のぶどう酒に変えられたという奇跡を起こされた物語ですが、この奇跡物語を通してさまざまなことが教えられています。
水とぶどう酒は、古いユダヤ教がキリストの弟子たちを中心にした新しいキリスト教のことを表していると理解することができます。水はユダヤ教、そして、ぶどう酒はキリスト教を指しています。水がぶどう酒に生まれ変わったということは、イエス・キリストの出現、十字架と復活によって、ユダヤ教がキリスト教に取って変わった、変えられたのだことが象徴的に表されているのだということができます。このようにいろいろな理解や解釈がされています。
ここで、一つ考えたいことは、主イエスは、母マリアの願いを一度は断って、そのすぐ後で、なぜ、このような奇跡を行われたのだろうかということです。裏返せば、このような奇跡を行われるのに、なぜ、母マリアの願いを断られたのかということです。
「わたしの時はまだ来ていません。」と言われた、この「わたしの時」とは、どのような時、何の時を表しているのでしょうか。
主イエスが、この世に来られた使命、その目的、そして、最大の務めは、十字架にかかって死ぬことであり、3日目によみがえることでした。「その時」というのは、この十字架の時であり、復活の時を言っておられます。その時こそ、ほんとうに神の栄光が顕される時であり、すべての人々の罪を贖い、神がすべての人を救う、救済の事業を完成させる時を意味します。
その「時」は、神がお決めになり、神の意志によってのみ行われるものです。何者もこれを変更させたり、動かしたりできるものではありません。神の主導性のもとに人類救済の大事業が行われようとしています。そのことによって、人々が主イエスを担ぎ出そうとしたり、途中で亡きものにしてしまおうと計ることを恐れたということができます。たとえ、最も身近な身内であろうとも、母マリアといえども、神がなさろうとすることに介入することはできません。
私たちは、神に祈り、さまざまなお願いをします。
私は、ずーーっと昔、先輩の聖職から、こんな話を聞いたことがあります。
神と私たち人間の関係は、こんなものだと言いました。
ある天気のいい日に、お父さんと子どもが、庭に出て、庭いじりをしています。小さな子どもは、お父さんのお手伝いをしているつもりで、小さなスコップであちこちを掘り起こしたり、山を作ったりしています。
子どもは、お父さんに言います。
「パパ、ここを掘って、ここに池を作りましょうよ。ここに土を盛って山を作りましょうよ。ここに木を植えましょう。この木を切って、ここを芝生にしましょう。ここに花壇をつくりましょう」と、お父さんの服の裾を引っ張って、主張します。次々と子どもは、考えつく要求を繰り返し、だだをこねます。
お父さんは、にこにこしながら黙ってこれを聞いています。お父さんは大人の目で見て、判断して、その庭全体の構図を考えて、このようにしようと思い、そのようにします。子どもの方は、まだ全体に目が届かず、目先のこと、自分の目で見えることしか考えられません。それでも、しつこくお父さんの服の裾を引っ張ります。
このように、神は、人間の目とは違う、大きな宇宙を支配し、その秩序の中で、すべてのことに心を配り、良しとされることを行われます。
一方、人間は、自分の身の回りの、自分の目に見えるものだけを問題にし、神さま、神さまと言っています。神は、祈りに答えてくれない、神は、私たちの思い通りになってくれないと不満をいいます。毎日、毎日、神さまの洋服の裾を引っ張って要求しつづけています。
これに対して、神は、ニコニコとしながら黙って、聞いておられます。そして、ある時、誰にも邪魔されない、影響されない、神の意志をあらわされます。
3 その栄光を現された。
さて、カナの婚宴の奇跡物語にもどりますと、主イエスは、主イエスのご自身の意志で、水をぶどう酒に変えられました。
主イエスが、奇跡を行われる時、その瞬間は、神の力が発揮される瞬間です。自然の法則の下で動いている私たちの日常の生活の中に、神の力、すなわち、超自然の力が介入する、干渉してくる、その瞬間に奇跡が起こります。その瞬間は、ピカッとフラッシュライトが光るように、神の栄光が顕される瞬間です。神が、神ご自身の側から、ご自分を垣間見せる瞬間だということができます。
弟子たちは、この瞬間に立ち合い、この瞬間を垣間見て、主イエスを信じました。
4 変えられる私たち
このような水をぶどう酒に変えられたという奇跡物語を読んだ時、お酒が好きな人は、そんな奇跡が行えたらいいなあと思うでしょうし、甘いものが好きな人は、何でもケーキに変わる奇跡が行えたらいいなあと思うかも知れません。
私たちの願いは、主イエスがなさるのと同じように、そのような奇跡を行う力を与えて下さいと願うのではないと思います。そうではなく、私たちは、神が行われようとする奇跡、その奇跡の道具にして下さいと願うことができるのではないでしょうか。
神が奇跡を行うため用意された、水瓶の水のように、ただ、手や足を洗うために汲んで置かれた水が、ぶどう酒に変えられ、良質のぶどう酒に変えられて、神の祝宴に運ばれていく。この家の困った状況を救う役割を果たす者とならせて下さいと願うことができると思います。
私たちが信仰生活を送るということは、そのような姿をいうのだと思います。生き生きとした信仰を持つということは、昨日よりも今日、今日よりも明日と、日々生まれかわっていくこと、変えられていくことにあると言われます。
コロサイの信徒への手紙3:9〜10
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
「新しい人を身に着け、日々新たにされる」ということは、水がぶどう酒に変えられるように、私たちが、日々古い人に死に、新しい人に生きるように、私たちが変えられていくことだと思います。
〔2007年1月14日 顕現後第2主日(C年) 説教 〕