あなたはわたしの愛する子

2007年01月21日
ルカによる福音書3:21〜22  21:民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22:聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  教会の暦では、昨日、1月6日は「顕現日」という日でした。  主イエスの誕生を記念する日から12日目になります。「顕現」とは、はっきり現れること、明らかにあらわし示すことという意味です。神は、とくに異邦人すなわちユダヤ人以外の人々にも現れ、神はご自身を明らかにお示しになったということを記念します。  顕現日の礼拝では、東方の博士たちが星に導かれて、はるばるユダヤの国にやってきて、ベツレヘムの馬小屋に寝ている神の子を拝んで帰ったという物語、マタイ福音書の2章1節〜12節が読まれます。  さて、今日の主日は、この顕現日から始まる「顕現節」の第1主日であり、そして、もう一つ「主イエス洗礼の日」と名付けられている日でもあります。  これは、主イエスが、30歳ぐらいになった頃、突然人々の前に姿を現して、ヨルダン川で洗礼をお受けになったということを記念します。  洗礼のヨハネが、ヨルダン川の近くで、ユダヤの人々に「悔い改めよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と説き、罪を悔い改めた者に洗礼を授けていました。大勢のユダヤ人が、このヨハネから洗礼を受けていました。  そこで、主イエスもヨハネから洗礼をお受けになりました。主イエスがなぜ洗礼をお受けになったのかということは、その後の神学者の間でも議論が絶えません。  マタイ福音書(3:13〜17)によりますと、  「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。  ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。  『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』  しかし、イエスはお答えになった。  『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』  そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」  とあります。  主イエスは、神の子であり、何一つ神に対して罪を犯していない方ではないか、なぜこの方が罪の悔い改めの洗礼を受けられたのかということが問題になります。マタイでも、主イエスご自身が『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』としか言っていません。  ルカの福音書では、3:21に、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とあります。民衆が受けた洗礼と主イエスが受けた洗礼が同じレベル、同じものとして描かれています。神の子イエスに罪がなくても、人間の肉体を取り、私たちと少しも変わらない完全な人間となられたという意味で、民衆が受けた悔い改めの洗礼をお受けになられたと言いたいのではないかと思います。  主イエスは、洗礼を受けた後、大勢の群衆から離れて一人祈っておられました。  「その時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(ルカ3:22)と記されています。  このような光景が、主イエスにだけ見えたのか、その近くにいる人たちも見たのかわかりません。  第一に、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。聖霊とは、目に見えない神の力です。本来、目に見えないものです。その聖霊が「鳩のように目に見える姿で」降って来ました。「鳩」という動物は、聖書の中には、たびたびイスラエルの民を表すシンボルとして出てきます。  神は、多くの鳥たちの中から、鳩を選び出し、これを立てる。鷲のように強い鳥でも、烏のように賢い鳥でもない、柔和で弱い鳥である鳩を呼び寄せ、住まいを与える(オセア11:11)と言われます。このようなところから、現在も鳩は平和のシンボルとして用いられています。神が多くの鳥の中から鳩を選ばれたというこの鳩は、多くの国々、民族の中から、もっとも弱い国、小さな民族であるイスラエルを選ばれたということとイメージが重なって、明らかにイスラエルの民族を象徴しています。  聖霊が、鳩のように目に見える姿で主イエスに降ったということは、救われるべきイスラエルの民の代表者として霊を受けたということでなのです。言いかえれば、主イエスは、洗礼を受け、同時にイスラエルの民を代表して民を導く霊と力を授かったということだということができます。(「新約聖書注解�機�P.281) 第2に、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』」という声が、天から聞こえた」(ルカ3:22)と記されています。  この言葉は、神の特別の愛を表しています。この時、主イエスはどのような祈りをしておられたのかわかりません。この時の主イエスの祈りに答えるかのように聞こえたのがこの声でした。  『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。  ルカ福音書によりますと、この天からの声は、もう一度聞こえたという出来事がありました。  主イエスがご自身の死と復活を予告された後、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られました。そこで、主イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝き、栄光に包まれながらモーセとエリヤと語っておられました。弟子たちはその光景を見て驚きました。  すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。(ルカ9:35)  主イエスが、ヨルダン川から上がって祈っておられる時、また、山に登って祈っておられる時、「あなたはわたしの愛する子」、「これはわたしの子」と同じ言葉が天から響いてくるのが聞こえました。  それは、神とその子イエスが交信しておられる瞬間でありました。  私は、いつも一つの場面を思い出します。  幼児が遊びに熱中している時、ふと気がついて、隣りの部屋のお母さんやお父さんを呼ぶ。そして、返事が返ってくると安心して、また、遊びに夢中になる。お母さんやお父さんの方も、時々思い出したように隣りの部屋をのぞき、子どもの名前を呼ぶ。そして、返事が返ってくると安心して台所仕事をしたりテレビを見たりしています。親のもとにいることに絶対の信頼と安心をもっている子ども、そして、愛する子どもの安全を確認する親の姿、互いに呼び合う、呼び交わすことによって、愛と信頼と安心を確認し合います。よく見かける親子の交信の姿である。  神は、そのひとり子をわたしたちのこの世にお遣わしになった。そして、チラッ、チラッと、親子の愛と信頼を確認するかのように呼びかけ合っておられる。その最も愛するひとり子を、父である神が、わたしたちを愛する愛を示すために、わたしたちが神を受け入れるようになるために、わたしたちが「生きる」ようになるために、その命を与えてくださいました。父と子が、愛と信頼を確認し合い、呼びかけ合っておられるその胸中を想うとき、ああ、私たちは、これにどのように応えたらいいのだろう。  それでは、私たちは、神との交信はどうでしょうか。神の方からは、いつも変わらない愛のまなざし、愛の呼びかけ、計り知れない恵みをもって、私たちに働きかけて下さいます。私たちに太陽の光や熱が振りそそぐように、雨の恵みが降り注ぐように、これを当然のように受けています。さらに、私たちを呼び起こすように、確認するように、日常生活の中にハッとするような呼びかけを感じることがあります。  私たちの側からの、これに答える愛の信号は、私たちの祈りであり、礼拝だと思います。私たちは毎日曜日、主日礼拝を守っているのですが、この礼拝こそ、神と私たちの交信の場であり、交信している時だと思います。  私たちは、主イエスがお受けになった洗礼と同じ洗礼を、イエス・キリストの名によって受けました。そして、神の子とされたのです。神がみ子イエスに向かって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけ、その関係を確認し、新たな使命をお与えになったように、今、私たちも神の子と呼ばれる資格が与えられ、私たちたちにも、一人ひとりに、同じ言葉で呼びかけてくださいます。  最近、ある信徒の方から、今は忙しくて教会に行けません。ヒマになれば、また教会に行きますから、もう連絡は出さないでください。郵送料がもったいないですからという手紙を頂きました。とっても悲しい思いがいたします。  お父さん、お母さんと幼い子どもが交わす愛と信頼と安心を確認する呼びかけ合うのと同じように、礼拝は、神と私たちとの愛の交信の場であり時だとすると、同じことが言えるでしょうか。忙しいからこそ、心も体もくたくたに疲れ切っているからこそ、この愛の交信が必要なのではないでしょうか。自分の方から神との交信のスイッチを切ってしまうということになってしまいます。  礼拝することから足が遠のくことは、神との交信がとぎれるということを知っていただきたいと思います。  もう一度、今日の特祷を一緒に祈りましょう。   「天にいます父よ、あなたは、み子イエスがヨルダン川で洗礼を 受けられたとき、聖霊を注ぎ、愛する子と宣言されました。どうか み名によって洗礼を受けたすべての者がその約束を守り、み子を主 また救い主として大胆に告白することができますように、父と聖霊 とともに一体であって世々に生き支配しておられるみ子イエス・ キリストによってお願いいたします。アーメン 〔2007年1月7日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 説教〕