幼子はイエスと名付けられた。

2007年01月21日
ルカ3:21  「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」  明けましておめでとうございます。それぞれに新しい希望に胸ふくらませて新しい年をお迎えになったことと思います。  新しい年を迎える皆さんの上に、神の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。  さて、今日は「元旦礼拝」でありますが、教会の暦では、「主イエス命名の日」という祝日になっています。  ルカによる福音書3章21節では、  「8日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と記されています。  当時のユダヤ教の習慣では、男の子が生まれると8日目に割礼という儀式を受けさせ、その日に名前がつけられました。主イエスも、その習慣に従って、割礼を受けられたと考えられます。そして、「イエス」と名付けられました。    ルカ福音書によりますと、天使ガブリエルがナザレのマリアのところに現れ、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」と告げました。そこで、ヨセフとマリアは、この子に「イエス」と名づけました。  イエスという名は、ギリシャ語で「イエスース」と言います。これはヘブライ語の「ヨシュア」からギリシャ語化した言葉で、「救い」または「ヤハウエは救いである」を意味します。その当時、イエスという名前はユダヤ人の間でもっとも広く用いられているごく普通の名前であったと言われます。イエスという名が神聖な名とされたのは、むしろ主イエスに名付けられ、「救い主」とされたことからきています。  主イエスの名は、いろいろと呼ばれます。「イエス・キリスト」とか「キリスト・イエス」と呼ばれているところから、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っている人がいますが、そうではありません。  「キリスト」は、ギリシャ語で「クリストウス」と言いますが、これはヘブライ語の「メシア」の訳で、「油注がれた者」という意味から「救い主」という意味を持っています。かつて、旧約聖書の時代に、王や祭司がその位に任命される時、頭に油を注いでそのしるしとしました。世の人々を救うために神から遣わされた救い主となるという意味で「油注がれた者」すなわち「救い主」となりました。したがって、イエス・キリストとは、「救い主イエス」という意味で呼ばれています。正教会では、キリストのことをハリストスと言います。  この他にも、主イエスは、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼ばれるであろうと(イザヤ7:14、8:8、10、マタイ1:23)預言され、また、多くの場合「主」という言葉が名前の前につけられて呼ばれています。    名前というのは、一般的には、人や物、動物など、一つの個体を他の個体と区別し、識別するために付けられるものだと思います。名前の代わりに、番号でも記号でもいいのですが、それではあまりにも味気ないので、ずいぶん昔から、人の名前として意味を持つ名が付けてきたのだと思います。  「名は体を表す」という諺があります。「名はその実体がどういうものかを示している」ということだと思います。名は、そのものの中身、本質をあらわしています。人の名前は、単に記号ではありません。私たちが、名前を呼び合う時、その人の人格、その人の内容、性格から顔、姿、その人の生きざまにいたるまで、その人のすべてをあらわしています。  とくに聖書では、「名」が大切なものであることが教えられています。  モーセの十戒の第3の戒めに「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあります。(出エジプト20:7)  また、主はモーセを通して言われました。「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」(出エジプト20:24) 神の名を唱えることは、神そのものを呼び出すことであり、神がそこに一緒に居られ、祝福されると神ご自身が言われます。  新約聖書にも、名にかかわる言葉がたくさん出てきます。 「み名が聖とされますように」、「み名を汚す」、「主の名を呼び求める」、「み名をほめ歌う」という言葉が出てきます。神の御名とは、神そのものをあらわしています。  主イエスは、祈りの中で言われます。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。」(ヨハネ17:6) 「わたしはみ名を現しました」とは、それは、神の本質と神の意志、み心を明らかにされたことを意味しています。  祈祷書の中にも、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉が出てきます。(赦罪、祝福、洗礼など)三位一体の神の名によってという意味で、私たちが正しく神の名を呼ぶとき、そこに神が居て下さる、臨在しておられる、祝福してくださる、力を現してくださるという信仰に立って居ます。  私たちは、つねに神に祈りをささげます。祈祷書を使って祈る場合でも、自分の言葉で祈る自由祈祷のときでも、そのお祈りの最後には、「主イエス・キリストの御名によっておささげします」とか「主の御名によってお願いします」と言います。キリスト者の祈りは、つねに、イエス・キリストの名によって祈り、ささげられます。 これは、単に、祈りの形や体裁を整えるために、このような言葉を付け加えているのではありません。  なぜ、そのような祈りをするのかという聖書の根拠を見てみますと、ヨハネ福音書ヨハネ14:13、14に、主イエスがこのように教えておられます。  「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」  願いごとをするときには、わたしの名によって願いなさい。そうすれば何でもかなえてあげよう」と約束してくださっているのです。  また、同じヨハネ福音書に、  「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」                      (ヨハネ15:16-17)  さらに、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは、わたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」                     (ヨハネ16:23、24)  私たちが、イエス・キリストのみ名によって祈る、イエス・キリストのみ名によって願うということは、そのように祈りなさいと、主イエスご自身が命じておられるのです。  クリスチャンでない人も、「祈る」ということをします。たとえば、手紙の末尾には、「ご健康をお祈り申し上げます」とか、「ご活躍をお祈りしています」と書きます。祈るという同じ言葉を使っていますが、私たちが「祈る」という言葉や行為とは大きく違うところがあります。それは、私たちはかならず「主イエス・キリストの御名によって」祈っているということです。  今までは、主イエスにお願いして、私のために祈ってくださいと言ってきた。神との間隔があまりにも遠すぎて、または神との断絶があまりにも深すぎて、私たちの祈りや願いや叫びは、神のところに届きませんでした。だから、主イエスにお願いして、中継していただく、間接的にお願いしていただくという状態でした。  しかし、神の御子、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちが神の子とされました。イエス・キリストを受け入れ、洗礼を受けることによって、神の養子とされたのです。  主イエスは言われます。「その日には、わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」(ヨハネ16:26)と。  私たちが、イエス・キリストの御名によって願うとき、それは、もう直接、神に願いを聞いていただくことになるのだと言われるのです。  私たちは、今日から、新しい年を迎えます。イエスと名付けられた神の御子は、その御名を呼ぶとき、共にいて下さいます。 イエスの御名によって願う時、それはかならず聞かれると約束してくださっています。なんとすばらしいことでしょうか。これこそが私たちに与えられた恵みです。これこそ、私たちクリスチャンに与えられた特権です。  今年こそ、この特権が与えられていることを忘れることなく、つねに主の御名を呼びつつ、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、私たちが主イエスと共に居ることが出来ますよう願いたいと思います。      〔2007年1月1日 主イエス命名の日・元旦礼拝 説教〕