アッバ、父よ
2007年01月21日
ガラテヤの信徒への手紙3:23-25、4:4-7
1 新約聖書におけるパウロの位置
あと13時間ほどで、2006年という年は終わります。
この時になると、過ぎた1年をふり返り、良いことあった、悪いことがあったなどといろいろ反省したり、感謝したりします。
私たちは、クリスチャンとして、どのような1年であったか、自分自身をふり返り、たくさん頂いた神の恵みに感謝し、新たな気持ちで新しい年を迎えたいと思います。
さて、今日は、教会の暦では「降誕後第1主日」です。
先日、主イエスの御降誕を祝う日を持ちました。降誕後の期節ですので、もう少し、主の御降誕について考えてみたいと思います。
クリスマスの礼拝では、とくに、マタイとルカの福音書がたくさん読まれます。そして、ヨハネの福音書の1章1節〜18節もよく読まれますし、説教なども、そのところから語られることが多くなります。
新約聖書では、これらの福音書とともに、「手紙」があります。とくに、ローマの信徒への手紙からフィレモンへの手紙まで、13の手紙はパウロが書きました。新約27巻のうち、13巻はパウロの手紙です。ページ数で見ると26.6%と占めています。
では、パウロは、キリストの誕生のことをどのように理解し、どのように取り上げているのでしょうか。
パウロという人は、直接、主イエスとお会いしたことがありませんし、12人の弟子の中にも入っていません。
パウロは、最初、サウロと呼ばれていましたが。後にパウロと呼ばれています。(使13:7、9)
パウロはキリキアの町タルソスの名門に生まれのユダヤ人であったと言われています。世襲のローマ市民権を持っていました(使22:28)。熱心なファリサイ派としての教育を受け,使徒言行録によれば,エルサレムの有名な学者ガマリエルのもとで学びました(フィリ3:5-6、使22:3)。パウロ自身、誰よりも熱心なユダヤ教徒であったこと強調しています。
ユダヤ教、ことに律法への熱心のために、キリスト者を迫害するのにも熱心でした。
パウロは、さらにキリスト者を捕らえ、迫害するためにダマスコに向かう途中、不思議な信仰体験をしました。突然、天からの光に照らされ,復活した主イエスの声を聞いて、目が見えなくなりました。目が見えないまま、手を引かれてダマスコに入り,信徒アナニアから洗礼を受けました。その時、目が見えるようになりました。 このようにして、不思議な回心を経験をし、熱心なユダヤ教徒が、キリストのために命をかける、宣教者、伝道者とされ、イエス・キリストの名を伝えるための器とされました(33年頃)。
パウロは戦いの人でした。静けさよりも激しさに満ち、自ら苦闘しながら、人間的な悩みを克服して真理のために戦った人でした。
パウロは異邦人への伝道を志し、3回にわたって、地中海沿岸の諸国、町に伝道旅行をし、その間、さまざまな迫害に合い、牢獄につながれ、鞭打たれ、旅先での危険にさらされ、命がけで、キリストの福音を宣べ伝えました。使徒言行録にその様子が語られ、その間に書き送った手紙が、私たちの手にあ13の手紙です。
ユダヤ教の信仰とギリシャ文化の知識を身につけたパウロの生い立ちと、命をかけた熱心と信仰が、その後のキリスト教の教理や教会の組織を形づくっていきました。キリスト教精神を方向づけたということができます。
2 パウロはキリストの誕生をどのように理解したか
さて、このパウロは、主イエスがこの世にお生まれになったということをどのようにとらえ、理解したのでしょうか。
パウロは、マタイやルカが紹介しているような、キリストの誕生物語については、全然、興味を示していません。それどころか、その後の主イエスの生い立ちや行動についても記していません。十字架と復活の意味については、そこにある信仰の内容としては、繰り返し強調していますが、どこで、誰が、どうしたかというようなことについては、何も書いていません。
あえて言えば、主イエスの出生について、唯一、示しているのが、今日の使徒書、ガラテヤの信徒への手紙4章4節なのです。
3 「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤ4:4)
これはどういう意味かといいますと、「時が満ちると」とは、神がお決めになった時ということです。それは、人間が決めた時ではありません。また、たまたまそのようになった偶然でもありません。神が、ある時、ある所を選んで、お決めになって、このことが起きたのです。
「その御子を女から生まれた者として」とは、生まれる前から存在していた神が、女から生まれた者として、この世に現れたのです。神は、私たち人間には見えません。私たちは、神を人間の五感、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わうというような感覚で捉えることができません。ところが「女から生まれた者として」この世に現されたのです。ここにはマリアというこの方を生んだ女の名前は出てきません。女から生まれたということは、私たち人間と同じ肉体を取って、私たち人間に、見える方、触ることのできる方、その声や言葉を聞くことができる方として、神から遣わされたのです。
「しかも律法の下に」とは、旧約聖書の預言に従って、旧約聖書の預言者たちが預言した預言の言葉を実現するために、あえて律法によってがんじがらめになっているユダヤ人社会の中に遣わされたのです。あえて肉体の制限の中に、律法の制限の中に、生まれるというかたちで、遣わされたのです。
それは、人が、この方を見て、父である神を知るためです。神のみ心がわかるようになるためです。神は、何を喜ばれ、何を嫌がられるかを知らせるためです。なぜ、神はそれほどまでして、ご自分を知らせようとなさるのでしょうか。それは、神が私たちを愛してくださるからです。
4 神の子として呼ぶ「アッバ、父よ」
よく天国はどこにあるのですかとか、神の国はどういう状態ですかと尋ねられることがあります。いろいろ説明するのですが、言葉を尽くしてもなかなかわかってもらえません。
そこで、正直に、私の感じていることを言います。
「天国とは、赤ちゃんが、お父さんやお母さんの腕の中で、安心しきって、すやすや眠っている姿だと思う」と言います。
どんなに混んでいる電車の中でも、喧しい雑踏の中でも、少々の揺り動かしても起きません。お父さん、お母さんを信頼しきっています。もし疑って、信用できない親だということがわかれば、そんなに安心できないでしょう。ピリピリして神経がいらだって寝てはいられません。
ちょうど、そのように、私たちが本当の幸せ、救いを得る瞬間があるとすれば、父である神にすべてをゆだね、信頼しきって、任せている姿だと思います。私たちが寝ていようと、起きていようと、関係ありません。健康である時も、病気の時も、これも関係ありません。24時間、生涯、神に、主イエスにすべてをゆだね切ることができればそこに天国があるのだと思います。
主イエスは、弟子たちと最後の晩餐をした後、オリブ山のゲッセマネの園に行かれ、祈られました。主イエスは、「わたしは、祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは、わたしに死刑を宣告し、異邦人に引き渡し、異邦人はわたしを侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺すだろう。そして、わたしは3日目によみがえるだろう」と、予告されました。弟子たちに、3度も予告されました。さらにイスカリオテのユダという12弟子の中の一人が、主イエスを裏切ろうとしています。
主イエスは、真っ暗なゲッセマネの園で、ひざまづいて祈られました。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われました。「『アッバ、父よ』あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 今、捕らえられ、死に引き渡されそうになっている主イエスは、「アッバ、父よ」と天を仰いで呼びかけました。
「アッバ」とは、アラム語で、「お父ちゃん」という、幼児語だそうです。今でしたら、さしずめ「パパ」というのでしょうか。
神が時をお決めになり、神は、その御子、神の子、神のひとり子を女から、人間の肉体を取って、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。なぜでしょうか。
それは、律法の支配下にある者、律法のもとでがんじがらめになっている人々、罪にうちひしがれて立ち上がれないような人々を、を身代金を支払って、そこから連れ戻すため、救うため、わたしたちを神の子となさるためにお遣わしになったのです。イエス・キリストご自身の命が、身代金として支払われたのです。
神の子イエスによって、あなたがたも神の子とされたのです。
「神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神よって立てられた相続人でもあるのです。」
神の実子は、イエス・キリストです。そして、私たちは、神の実子に次ぐ者として、「子となる身分をお与えになり」養子とされ、相続人とされたのだとパウロは言います。私たちも、神さまに「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようにされたのです。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
(4:26-28)「わたしたちは、信仰によって、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは皆、キリストを着ているからです。」
この1年、主イエスとの関係はどうだったでしょうか。新しい1年には、もう少し、主イエスとの関係、神との関係を自覚して歩むことができますよう、上よりの力を祈りましょう。
〔2006年12月31日 降誕後第1主日(C年) 聖アグネス教会〕