「この聖書の言葉は、今日実現した」
2007年01月28日
ルカによる福音書4:21-32
主イエスは、ガリラヤ地方のナザレという小さな村でお育ちになりました。幼年期、少年期、青年期をここで過ごし、そして、30歳になった頃、人々の前に姿を表して、教えはじめられました。
ガリラヤ地方の会堂で教えるその姿は、神の「霊」に満たされ、その教えの力強さは、聴く人の心を打ち、多くの人々から尊敬されました。
ある時、ご自分が育ったナザレに来て、いつものように、安息日に会堂に入られました。ふつうラビと呼ばれる律法の学者がそうするように、聖書の巻物が渡されました。それは預言者イザヤの書でした。主イエスは、これをお開きになり、そこで、目に留まったところを朗読されました。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
これは、旧約聖書のイザヤ書61章1節に記されている言葉です。
読み終わって、主イエスは、イザヤ書の巻物を係の人に返して席に座られました。その会堂にいたすべての人々の目が主イエスに注がれました。これをどのように解釈されるのか、何と教えられるのか、主イエスを見つめていました。
すると、主イエスは、
「この聖書の言葉は、今日この時、今、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、話し始められました。人々は、主イエスの言葉に感動し、その教えをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたと記されています。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」
預言者イザヤが言う「わたし」とは誰のことでしょうか。「預言者自身のことでしょうか。これから現れようとする、イスラエルの民が待ち望んでいる救い主のことでしょうか。
「貧しい人」というのは、「捕らわれている人」であり、「目の見えない人」であり、「圧迫されている人」のことを言います。この世にあって、虐げられている人、差別されている人、不当な扱いを受けている人、貧しさに困窮している人、これらの弱い立場、小さい者、これらの人々に、「良い知らせ」を伝えるために、神の霊が注がれ、その仕事を行うために任命された「わたし」、このわたしとは誰のことでしょうか。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスは、イザヤ書に書かれている「わたし」とは、「わたし」のことだと言われます。主イエスは、ご自分を指さして、「わたしとは、わたしのことだ」と言われます。今、わたしがこの聖書の個所を読み、あなたがたがこれを耳にした時、この瞬間に、預言者が預言したこの言葉が成就した、完成した、満たされたのだと宣言されます。
「あなた方は今まで何回もこの聖書の個所を読み聴かせられ、たくさんの解釈を聴き、解説を聞かされてきた。しかし、それは、外から撫でるような、推測や想像ばかり、またはその説明にすぎない。かゆいところを靴の上から掻くような、遠回しの解説ばかりを聴かされてきている。しかし、今からは違う。今は、あなたがたの目の前にわたしがいる。わたしがそれなのだ。わたしが神から「油注がれた者」であり、神は、わたしを、貧しい人たちに良い知らせを伝えさせるために、遣わされたのだ」この主イエスの言葉の中に、このような意味が示されています。
この言葉の中には、主イエスの神の子としての自覚、救い主としてこの世に遣わされたことの使命、その使命をやり遂げねばならないという強い覚悟がほとばしっています。
この主イエスの言葉を聴いて、ナザレの会堂にいた人々は、みんなイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。
しかし、その一方では、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。
「ヨセフの子」というこの言葉の裏には、この男は、大工の息子ではないか、小さい時から知っている。母親のことも知っている、その兄弟や姉妹も知っている。たいした身分でもない。金持ちでもない。地位も肩書きもない。何を偉そうなことを言っているのだという気持ちがあります。
私たちは、主イエスのことを「神の子」と信じます。私たちのために、神がこの世に遣わされた神の独り子であると信じています。しかし、主イエスの前にいるナザレの人々には「ヨセフの子」としか見ることができませんでした。主イエスの生い立ちや家族関係など、目に見える姿でしか理解できませんでした。
当時の人々には、誰も理解できません。とくに故郷ナザレの人々には、主イエスは、主の霊がつねに共にあり、貧しい人々に福音を告げ知らせるために油注がれた人であるとは、とうてい信じられませんでした。
主イエスは、この時以来、約3年間、このことを叫び続けられました。人々に誤解され、またある時は担ぎ出されそうになり、また、ある時には殺されそうになりました。そして、神が定められた時、神が定められた所で、その遣わされた者として使命を果たす「時」が来ました。そこには十字架の上で苦しみもだえる姿がありました。 十字架の上で、主イエスは叫びました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。そして、最後に「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られた。(19:30)
預言者イザヤによって語られた、預言の言葉は、主イエスの出現によって「実現し」、そして、イエスの死によって「成し遂げられ」ました。そこに実現し、成し遂げられたことの具体的な内容は、貧しい者に良い知らせを知らせることでした。弱い者、醜い者、虐げられている者、寂しい者、地位も名誉もなく、見捨てられている者、そのような最も貧しい者に、「良い知らせ」すなわち「救い」をもたらすということでした。
そして、今、この言葉を耳にした私たちは、これをどのように受け取るでしょうか。
「貧しい人に福音を告げ知らせるために」来られた主イエスを、きちんと受け取っているでしょうか。
「わたしだ、わたしだ」と、一生懸命、ご自分を指さしておられる主イエスに、私たちの目は焦点が合っているでしょうか。耳はそちらに集中しているでしょうか。
私たちが持っている信仰は、ちゃんと的を射ていますか。
いつも同じことを言いますが、キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストだということです。
なんだ、そんなこと、当たり前だと鼻先で笑う方がおられるかも知れません。しかし、このことを、頭のどこかで知っている、覚えているというだけでは、ほんとうの信仰にならないのです。
心も体も、全身でそのことに触れる、受け入れられるということは、大変なことなのです。
「醍醐味」という言葉があります。山登りの醍醐味、スキーの醍醐味とかいいます。深い味わい、ほんとうのおもしろさ、特別に美味しいものを味わった時などにつかいます。
この言葉は、仏教用語で、牛乳を精製する過程でできる5段階の味、牛乳からヨーグルト,バター,チーズなどを作っていく過程をいいます。乳味、酪味、生酥(ショウソ)味、熟酥味、醍醐味と進んで最高の味、醍醐味にいたるとしてこれを五味と呼びます。
キリスト教の醍醐味を味わっているかということです。
キリスト教の最高の真理に触れているかということです。
キリスト教についてわかった、わかっているという方は、キリスト教の雰囲気を知っているに過ぎないことが多いのです。キリスト教の周辺、目に見えるところばかりに目が向いていて、それがキリスト教だと思っている、それで満足しているに過ぎないということはないでしょうか。
キリスト教信仰のほんとうの喜び、ほんとうの救いの喜びにあふれているかどうかということです。
聖書は言います。
真理とは何ですか。それはイエス・キリストです。
ほんとうの自由とは何ですか。それは、イエス・キリストによってのみほんとうに自由になることができます。
ほんとうの平和とは何ですか。イエス・キリストによってのみほんとうの平和がもたらされます。
ほんとうの豊かさとはなにですか。イエス・キリストにすべてをゆだねられた時、ほんとうの豊かさに満たされます。
ほんとうの救いとは何ですか。イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たちは救われます。
ほんとうに生きるとはどうすることですか。私たちの心を明け渡し、イエス・キリストがそこに住み、イエス・キリストが共にいてくださることです。
死ぬとはどういうことですか。イエス・キリストと共に死に、イエス・キリストと共によみがえることです。
ほんとうに愛するとはどういうことですか。イエス・キリストが私たちを愛してくださったように愛することです。イエス・キリストが私たちを愛してくださっていますから、人を愛することができるのです。
すべてイエス・キリストと共にあることを体中で受け止め、感じるとき、信仰の醍醐味が味わうことができます。
主イエスに向かい合う私たちの姿は、心は、あのナザレの人たちのようになっていないでしょうか。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
今、私たちは、この言葉を耳に聞き、しっかりと心に植えたいと思います。
〔2007年1月28日 顕現後第4主日(C年)〕