主イエスとのほんとうの出会い
2007年02月04日
ルカ福音書5:1〜11
1 おびただしい数の魚が捕れた奇跡物語
主イエスが宣教活動を始められたガリラヤ地方にガリラヤ湖という湖があります。この湖は、キンネレテ湖、ティベリアス湖、ゲネサレト湖とも呼ばれます。私たちは琵琶湖をよく知っていますが、この琵琶湖とガリラヤ湖を比べますと、面積が4分の1ほどの大きさの湖です。
主イエスがこの湖の湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、また、病人を癒し、悪霊を追い出したという噂を聞いて、あちらの村もこちらの町からも大勢の人々が押し寄せてきました。
主イエスは、この湖の岸辺に、2艘の舟がつながれているのをご覧になりました。漁師たちは、今、漁が終わって、舟から上がって網を洗っているところでした。
主イエスは、その一艘の近づき、その舟の持ち主シモンの舟に乗り込み、シモンに、岸から少し漕ぎ出してもらいたいとお頼みになりました。押しかけてきた群衆は岸辺にいます。その人たちに向かって、主イエスは、舟の中で腰をおろし、そこから岸に向かって教えはじめられました。神について、神の言葉を語られました。
話し終わった時、主イエスは、シモンに、もっと沖の方に漕ぎ出すようにと言いました。シモンは、言われた通りに、舟を漕ぎ、沖に出ました。すると、主イエスは、「ここに網を入れて漁をしなさい」と言われました。
その時のシモンの心中を推測してみますと、シモンは先ほどから、不思議な気持ちでいました。突然、舟に乗り込んできて、岸から人々に教え始められました。舟の中で、主イエスのいちばん近くに居て話を聞き、感銘を受けていたところ、話し終わって、もっと沖に漕ぎ出せと言われます。そして、それだけはでなく、ここに網を入れて漁をしろと言われます。
それまでは、何でも「はい、はい」ということを聞いてきました。しかし、そのことだけはいくら言われても聞けません。シモンは、魚をとる漁師です。小さい時からこの湖の近くに住み、漁師を職業としている魚を取るプロです。そのプロが昨夜から一晩中網を入れても魚は捕れなかったのです。そんな時には、どんなに焦っても、努力しても魚を取ることはできません。そのことについては、すぐには言うことを聞くわけにはいきません。
シモンは言いました。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、一匹も魚やとれませんでした。」「不漁の時はこんなものなんです。素人のあなたに何がわかるのですか」
この言葉は、長年の経験に裏打ちされて自信に満ちています。
「しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」論より証拠、やってみればわかりますよと言わんばかりに、言われたように、仲間の漁師と一緒に網を降ろしました。
すると、おびただしい数の魚が網にかかり、網がいっぱいになって、網が破れそうになりました。そこで、もう一艘の舟に合図して、手を貸してもらい、やっと網いっぱいの魚を引き上げました。二艘の舟は魚で一杯になり、舟は沈みそうになりました
シモンもその仲間たち、そこにいたゼベダイの子ヤコブもヨハネも、びっくりしました。あり得ないこと、信じられないことが起こったのです。そこに奇跡が起こったのです。彼らは奇跡を目の前に見たのです。
シモンは、思わず「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。
主イエスはシモンに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは、すなわちシモン、そしてゼベダイのヤコブとヨハネは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて、主イエスに従いました。このシモンというのは、後に12人の弟子たちの兄貴分ともいうべき人になったペトロのことでした。
2 ペトロとイエスの出会い
この出来事は、ルカ福音書が伝える奇跡物語です。そして、ペトロと主イエスの出会いの物語であり、主イエスの招きの物語でもあります。
マルコの福音書では、
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(1:16-20)となっています。
そこには、おびただしい魚が捕れたというような奇跡物語はありません。
たぶん、二通りの伝わりかたをした、ペトロと主イエスの出会いの物語があったのだろうと言われています。
ルカは、魚を取る漁師として、専門的な知識や経験において、自信満々のペトロの鼻をへし折ってしまったこの奇跡物語を伝えています。彼の専門の世界で、捕れるはずのない所で魚が、それもおびただしい数の魚が捕れたという奇跡をもって、彼の知識や経験が取るに足りないものであることを示しました。ペトロやその仲間、ヤコブやヨハネの驚き、恐れが伝わってきます。
3 ペトロの信仰告白
ペトロは、「主イエスの足元にひれ伏して」「主よ、わたしから離れてください」と言いました。「ひれ伏す」という動作は、礼拝する者の姿を表します。
それまでは、主イエスに対して、「先生」と呼んでいました(5節)。会堂から会堂へと巡回して歩く律法学者やユダヤ教のラビ、先生の一人だろうぐらいに思っていました。しかし、今、目の前に起こった奇跡を見たとき、「主よ」という信仰告白の言葉に変わりました。「あなたこそ主です」それは、神よりの使者、神の聖なる方、神そのものであることをあらわします。
そして、「わたしから離れてください」と叫びました。驚きを通り越して恐れを抱きました。神なるものへの畏怖、神聖な者と同じ所に居ることへの恐れを感じました。
旧約聖書のある場面を思いおこします。モーセがシナイ山に登り神から十戒を授かって、山から降りてきたとき、
「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。(イスラエルの)民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちに(直接)お語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。』モーセは民に答えた。『恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。』民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。」(出エジプト記20:18〜21)
神に近づくのを恐れたイスラエルの民のように、シモンは、主イエスに対して、この方は、神に近い方であると気づき、神に近づくことの恐れを感じたのでしょう。「わたしから離れてください」と叫びました。
さらに、「わたしは罪深い者なのです」と自分の罪の告白をしました。シモンがいう「罪」とは、どのような罪を言っているのでしょうか。その場で、とっさに自分の生活をふり返って、あんな悪いことをした、こんなひどいことをしたと思い返し、そのことを思い返して罪の告白をしたのでしょうか。そうではなく、主イエスを「主」としなかったこと、神を神としなかったこと、主を主としなかったことの悔い改めであり、罪の告白でありました。
この同じルカによる福音書の少し後のほうに、5:31に、イエスは言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。
主イエスは、罪人を招いておられる。自分自身が罪人であることを認めている人を招いておられます。言いかえれば、「わたしは罪深い者なのです」と告白するシモンこそ、主イエスに招かれている人、招かれる資格を備えた人になったということになります。
4 イエスの招き
主イエスは、シモンに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。
旧約聖書に、かつて神は預言者エレミヤを通して語られた言葉があります。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」(16:16)
主イエスは、シモンに、「あなたは、今までは魚をとる漁師だった。しかし、これからは、神のために人間を、人を釣り上げさせる漁師となる。人間を取る漁師としてあなたを遣わす」と言って、シモンを招き、さらに、宣教者、伝道者として派遣することを暗にお示しになりました。
これは、ルカ福音書が伝える、シモン・ペトロと主イエスの出会いの物語です。シモン・ペトロは、主イエスに出会い、み言葉に触れ、今までの経験や知識や常識を越えるようなびっくり仰天するような出来事を目の当たりにし、罪を告白し、主イエスの招きを受け、そして、舟も網もすべてを捨てて、主イエスに従いました。
それ以後、ペトロは、つねに主イエスの12人の弟子たちの一人として、主イエスに従い、主イエスの十字架と復活を体験し、聖霊の強い後押しを受けて、人々にイエス・キリストを宣教する者となっていきました。
私たちは、今日、シモン・ペトロという主イエスの弟子の一人の主イエスとの出会いについて学びました。
私たち一人一人にも、主イエスとの出会いがあります。
その出会い方は、それぞれ、みな違った出会い方をします。
しかし、ほんとうの出会いは、出会って、ただ知っているというだけでは、ほんとうに出会っているとは言えません。
ほんとうの出会いとは、主イエスに出会って、心揺さぶられ、心の底から罪を告白し、さらに主イエスに招かれ、クリスチャンとしてこの世に遣わされていく、生涯、主イエスに従っていく出会いではないでしょうか。
自分の人生が変えられる、生き方が変わった、そのような出会いを、主イエスさまとのほんとうの出会いをもつことができますよう心から願い求めたいと思います。
〔2007年2月4日 顕現後第5主日(C年)説教〕