ナインのやもめの息子を生き返らせる

2007年06月11日
ルカ7:11〜17、列王記上17:17〜24 1 ナインのやもめの息子をよみがえらせる。  主イエスが育ったガリラヤのナザレから南東へ約9キロほどの所にナインという小さな町がありました。主イエスは、弟子たちとともに旅を続け、このナインの町に入ってこられました。  弟子たちや主イエスの噂を聞いたこの町の人たち、大勢の群衆が主イエスについて歩いています。  主イエスが、町の門に近づかれた時、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。この母親は、「やもめ」、未亡人でした。どんな事情があったのかわかりませんが、夫を失い、子どもを抱えて、女手一つで子どもを育ててきました。たいへんな苦労をして、息子を大きくしたのですが、この愛しい一人息子が、病気か何かで死んでしまいました。一人息子に先立たれた悲しみ、身をもだえ、泣き悲しんでいます。その事情を知っている近所の人たちが大勢そばに付き添って、同じように悲しみ、涙を流しています。  主イエスは、この泣き悲しんでいる母親を見て、「可哀想に」と同情されました。憐れに思い、この婦人に近寄って「もう泣かなくともよい」と言われました。そして、さらに近づいて棺に手をかけられると、棺を担いでいた人たちは立ち止まりました。  主イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。すると、棺の中に寝かされて、死んでいたこの息子は、起き上がって、ものを言い始めました。主イエスは、その息子の手を取って、母親に渡してやりました。  これを見た人々は、皆、びっくりしました。今、目の前で起こった出来事に、恐れを感じ、そして、神を賛美しました。  ある人たちは、「大預言者が、我々の間に現れた」と言い、また、ある人たちは「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。そして、主イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まりました。 2 この奇跡物語の背景  本日の福音書には、「主イエスが、ナインの町でやもめの息子を生き返らせた」という奇跡物語が記されています。  聖書の中には、このような奇跡物語がたくさん記されています。  もっとも愛する人、家族や親しい人が病気になったり、死にそうになった時、私たちは思わず祈ります。このように、主イエスが、病気の人を癒されたとか、死んだ人をよみがえらせたという聖書の出来事を思い出しながら、「神さま、奇跡を起こしてください」と、必死になって祈ります。しかし、神さまは、その祈りを聴いてくださったと思う時もあれば、聴いてくださらなかったと思う時もあります。  奇跡物語は、このような「かなわぬ時の神頼み」のために、そのことを教えるために、起こったのでしょうか、聖書に記されているのでしょうか。  今日の福音書のこの個所をよく読んでみますと、このナインのやもめ、未亡人は、主イエスに、何もお願いしていません。この婦人が主イエスのことを神の子と知っていたわけでもなければ、奇跡を起こしていただくような信仰を持っていたわけでもありません。  彼女は、ほんとうに悲しみのもだえ、見る人は誰でも涙をさそうような悲しみのどん底に突き落とされていたのです。  この姿をご覧になった主イエスは、べつに誰かに懇願されたわけではなく、ご自分のほうから「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』」と言われ、主イエスのほうから近づいていかれたのです。この奇跡が起こった動機は、一方的に、主イエスのこのやもめに対する同情、哀れみにありました。  ところが、この奇跡の出来事を見た人、またそのあとでこの話を聞いた人たちには、誰でも知っている知識がありました。  それは、今日の私たちにはないものでした。  人々は、主イエスが行われた奇跡の出来事に驚きました。はじめは驚き怪しみました。「死んだ人がよみがえらせるなんて、この人はいったい何者だ」と、恐れをいだきました。  そして、次の瞬間、言い伝えられ、語り継がれて教えられている昔のある出来事を思い起こしたのです。  それは、旧約聖書に記されている出来事でした。  本日の旧約聖書、列王記上17:17〜24にある出来事です。  エリヤと言う人は、紀元前9世紀ごろ、南北に分裂していたイスラエルの北イスラエル王国で活躍した預言者でした。イスラエルの民に異教の神を信じさせようとする王や王妃に対抗し、ほんとうの神、ヤーウェを信ぜよと叫び、迫害を受け、飢饉の中で叫び続けた預言者でした。この預言者の回りにはたびたび奇跡が起こったことから、後の時代の人たちから預言者の中の預言者、大預言者と呼ばれるようになりました。  エリヤは、厳しい干ばつにあい、生きるか死ぬかの境地の中で、シドンの地、サレプタに行き、一人のやもめの所に住めという神の命令を聞きます。このやもめの家は、その日の食べ物がないほど貧しい状態でした。そこで、預言者エリヤは、食べ物が与えられる奇跡を起こし、さらにそのやもめの息子を生き返らせるという奇跡を行ったのでした。  「この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女は、エリヤに言った。 『神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。』 エリヤは、『あなたの息子をよこしなさい』と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。『主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。』  彼は、子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。『主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。』  主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、『見なさい。あなたの息子は生きている』と言った。女はエリヤに言った。『今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。』」  預言者エリヤに起こったこの出来事は、当時のユダヤ人は、小さい時から教えられ、知っている出来事でした。  主イエスが、ナインで、やもめの、死んだ息子をよみがえらせたという出来事を目の当たりにした時、人々は、皆、恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者がわれわれの間に現れた」と言いました。また、「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。その背景には、預言者エリヤのこの出来事があったからでした。そして、主イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まっていきました。 3 奇跡物語から学ぶもの  このように見てきますと、聖書の奇跡物語、奇跡の出来事というものは、なぜそんなことができたのかとか、科学的な知識では理解できないというようなことが全く問題にならないことがわかります。  また、ある特定の死んでいた人の命を、わずかだけ延ばす単なる延命装置の役割を果たすものでもありません。  主イエスによってよみがえらせていただいた人々、ヤイロの娘(マルコ5:35〜)、ナインのやもめの息子(ルカ7:17〜)、ラザロ(ヨハネ11章)も、みんなよみがえらせていただいて、しかし、もう一度死んでいるのです。その後どうなったかということは聖書に記されていません。  いつまでも生きていたわけではありません。  彼らは、主イエスが与えようとする「永遠の命」を、人々に知らせるための器となったのです。  主イエスは、これらの人々をよみがえらせるという出来事を通して、彼らを用いて、神さまのなさる業、神さまの力、神さまの権威を人々にお見せになっているのです。  私たちには、神を直接見ることはできません。しかし、そのような私たちに対して、神さまのほうから、チラッ、チラッと、ご自分をお示しになります。  ナインの町の人々は、皆、恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者がわれわれの間に現れた」と言いました。また、「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。  奇跡物語が伝えようとするほんとうの意味は、「この方は、神の子。この方こそ、神。この方こそ、神の権威を持つ方、そして、この方こそメシヤ、救い主である」ということを知らせることでした。  人々は、この方は、大預言者エリヤの再来だととらえましたが、しかし、エリヤ以上の方、比べることさえできない方が、今、ここに来て下さっているということには気がつきませんでした。  また、人々は、「神は、その民を心にかけてくださった」と言いました。しかし、「神は、その民を心にかけてくださった」ぐらいにとどまらず、神さまは、そのひとり子をこの世に遣わし、その命を十字架にかけて、これほど、あなた方を愛している、愛するということを、お示しになりました。人々は、まだ、そのことには気がつきませんでした。 4 恐れを抱き、神を賛美した。  私は、聖書の奇跡物語にふれる時、いつも思います。私たちが、主イエスが行われる奇跡に接し、心がふるえ、神を恐れ、そして、神を賛美せずにはいられません。  そして、主イエスが行われる奇跡の出来事は、過去の出来事、すなわち2千年昔に、終わってしまった出来事ではありません。  今も奇跡は起こります。現代のこの時代、現在も奇跡は起こっています。  私たちの心が鈍いために、そのことがわからないでいるのです。  私たちが、奇跡を起こすのではありません。神が、奇跡を行われるのです。神が、私たちの中に奇跡を投げ込まれます。  神が、この身に奇跡を行って下さいますように、この世に神のご栄光を表すために、私たちをその器としてお用いください、神の道具としてくださいと願います。  主は、今も、今の時代にも、かならず奇跡を行って下さいます。 〔2007年6月10日 聖霊降臨後第2主日(C-5) 説教〕