「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
2007年06月24日
ルカ9:18〜24
1 イエスはだれ? ヘロデの問いとイエスの問い
ある教区の信徒の修養会に出席しているときのことでした。聖書や教会のことについて、いろいろ話し合っているときに、一人の中年を過ぎたぐらいの男性が、手を挙げて質問しました。
「主教さんにお願いしたいことがあります。信徒は、聖書を読まなければならないことはよくわかっているのですが、何しろ毎日が忙しいし、聖書が長すぎて、そして、読んでもわからないところが一杯あります。それで、主教さんにお願いしたいのですが、この長い聖書の中から、一番だいじだと思うところを抜粋して、読みやすくして出してもらえんでしょうか。ここだけは読んでおけとか、覚えておけという所を、小さな小冊子にしてもらったら、信徒はみんな助かるとおもうんですが。」
と言いました。
すると、そこに出席しておられたその教区の主教さんは、答えて言われました。
「聖書をどんな偉い学者が研究して抜粋をつくっても、それは聖書じゃなくなるんですね。聖書というのは、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、全部で66巻、これをもって聖書というのです。そのはしからはしまで、全体を持って、大事なことを伝えようとしているのですから、それは出来ないでしょうね。」
聖書全体、とくに新約聖書の大きなテーマは、「イエスという方は誰か」ということにあります。教訓や物語や手紙など、いろいろな文体がありますが、その全体を通して一貫しているテーマは、イエスという方はどんな方で、わたしたちはこの方とどのように関わるか、どのような関係にあるべきかということが述べられています。
今日の福音書はルカ福音書9章8節から24節ですが、同じ9章の7節から9節には次のような個所があります。
「7:ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、8:『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。9:しかし、ヘロデは言った。『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』そして、イエスに会ってみたいと思った。」
当時、ガリラヤ地方を治めていたユダヤの王は、ヘロデ・アンティパスといい、後にイエスから「あの狐」と呼ばれたずる賢い、王でした。この王が、兄、ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤと通じ結婚したために、バプテスマのヨハネは、そのようなことはゆるされないと、抗議し、非難したため、ヘロデ・アンティパスは彼を捕らえ、牢獄に入れてしまいました。さらにヘロデヤの策略によって、ヨハネの首をはねるという出来事がありました。
このヘロデ・アンティパスが、イエスの噂を聞いて戸惑ったと記されています。ナザレ出身のイエスという男の噂ですが、王の耳に入るほど噂が広がっていました。
その噂というのは「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいました。さらに、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいました。
横暴で狡猾で残忍な王でしたが、自分が支配する領地内に、自分以外に聞き従う者がいて、噂になり、大勢の人々がその人物の所に集まっている、そして、このような噂が立っているとすれば、心穏やかではありません。ましてや、自分が殺させたバプテスマのヨハネの生き返りなどと聞かされると、ただ事ではありません。不安と恐れとそして好奇心に満ちて、思わずつぶやきます。
「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主とは」と。
いっぽう、今日の福音書ですが、イエスと弟子たちの対話が紹介されています。
「イエスがひとりで祈っておられたときでした。―イエスが重要なことを教え、行われるときには、イエスは祈っておられます。―その時、弟子たちも一緒にいました。そこでイエスは弟子たちに尋ねました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『預言者のエリヤだ』と言う人もいます。『だれかわかりませんが昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
イエスは、さらに尋ねられました。
「それでは訊くが、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
すると、弟子たちを代表してペトロが答えました。
「神からのメシアです。」
ヘロデ・アンティパスが聞いた噂と、イエスが弟子たちから聞いた人々の噂とは、全く同じものでした。しかし、ヘロデはこれに戸惑い、不安を感じ、恐れを感じ、そして、好奇心だけで、その人物に会ってみたいと思いました。
一方、イエスは弟子たちからこのような噂を聞いた時、さらに進んで「神からのメシアです」というペトロの信仰告白を引き出されました。
2 ピントが合った答え「神のメシヤです。」
「バプテスマのヨハネです」「預言者エリヤです」「預言者の中の誰かの生き返りです」という噂、それは、「イエスとは何者か」という問いに対する答えとしては、漠然とした答えでした。イエスの教えや行い、すなわち、多くの病気の人をいやし、嵐を静め、悪霊を追い出し、罪を赦し、5千人の人たちにパンと魚を与える奇跡の数々は、この方は普通の人ではないということはわかります。
そこで、自分たちの先祖、自分たちの民族の歴史の中に出てくる預言者たち、有名な預言者の名をあげ、その再来だとしてとらえました。いわば、実在した過去の人物に置き換えて、今まで持っている自分たちの知識や経験の範囲の中で、イエスを知ろうとしています。
しかし、イエスは、過去の歴史の中のどのような人物にも当てはまらない。アブラハムも、モーセも、ダビデも、どの預言者たちにも当てはまらない方でした。
ペトロはそのことをとらえ、しっかりと答えました。「神からのメシアです」と。
「メシヤ」とは、「油注がれた者」という意味です。ユダヤの族長や王や祭司長が就任する時、頭に油を注ぐという儀式が行われていました。そのことから、「油注がれた者」とは、民族を救う者、ほんとうの指導者、権威を持つ者を意味するようになりました。さらに後の預言者たちは、救世主、救い主の到来を待ち望み、これをメシヤと呼び、その方の来られることを預言していました。
「あなたは神からのメシヤです」それは、あなたこそ神の子です。あなたこそキリストです。あなたこそすべての人が待ち望んでいる救い主です。それは、ピントがずれて、周辺をぼんやり照らしていた光が、真ん中にピタッと焦点が合い、明るく照らしだされた答えでした。 この言葉の中に、イエスとは誰かという問いに、ペトロは、真っ直ぐに答えたことになります。
マタイ福音書16章16節では、並行して記されている個所があります。ペトロが「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えると、イエスは、「シモン・ベルヨナ、あなたは幸いだ」とペトロの答えをおほめになりました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。そして、さらに「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天国の鍵を授ける」と言われました。正しい答えをほめ、その信仰告白の上に教会を建てる。天国の鍵を授けると、教会の将来を予定されるような言葉を述べておられます。
3 ご自身の死と復活を予告される
ルカ福音書に戻りますと、イエスは、まだその時がきていないから、このことは誰にも話さないようにと戒められてから、弟子たちに対して重大な発表をされました。
「わたしは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」という、ご自身の死と復活を預言する言葉でした。
そして、さらに言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
聖書のテーマは、「イエスは誰か」、「イエスは何者か」ということでした。そして、その答えは、「あなたはメシヤ、キリストです」という弟子たちを代表するペテロの答えでした。イエスが誰なのかわかった人、イエスを正しくとらえ、イエスに対して正しい信仰告白ができた人たちに対して、ではその次にどのように生きるのか、生きるべきかが示されます。」
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
イエスは「わたしに従いなさい」と命じられます。しかし条件があります。
第1に自分を捨てなさいと言われます。
自分を捨てるということはどういうことでしょうか。
人はいつも自分の欲望や野心を満足させたいと思っています。感覚や感情で好き嫌いをいう。朝から晩まで、何かを選んで生きています。判断して行動したりしなかったり、言ったり言わなかったりしています。その時の判断、選択の基準は、自分の損得であったり、欲望であったり、人からどう思われるかであったりします。すべての人がそのように生きていると思いますが、そのような自我、欲望にしがみついている自分を捨てなさいと言われるのです。あなたが、今、こだわっている自分、そのために苦しんでいるならばこだわりを捨てなさいと言われます。とっても難しいことですが、主イエスはそのように言われるのです。
第2に、「自分の十字架を背負いなさい」と言われます。
自分の十字架を背負うとはどういうことでしょうか。
主イエスは、ご自身がそれを体験して見せておられます。エルサレムの街から、郊外にあるゴルゴタの丘という山の上まで、自分が磔にされる十字架を背負って歩かれました。弱り切った体に、重い十字架を担ぎ、何度も何度も倒れながら、鞭打たれながら、十字架を背負って歩かれました。これに倣って、あなたも、自分の肩に担がされている十字架を背負って歩きなさい。歩き通しなさいと言われます。
生まれつき人間として背負わねばならない十字架があります。それぞれが、人に言えないような十字架を背負っています。経済的な問題、家族や学校や勤め先でのさまざまな人間関係のしがらみ、社会的な問題、そのさまざまな問題、毎日起こってくる問題、それを全部背負って歩きなさい。投げ出してはいけません。逃げ出してはいけません。倒れても倒れても、最後まで自分の肩に掛かる十字架を背負い通しなさいと言われます。勇敢に、忍耐して負い続けなさいと言われます。
その行き着く向こうには、主イエスが待っておられます。
主イエスの時代、この話を聴く人たちには、主イエスに従おうとする人たちに対する厳しい迫害がありました。その重荷、十字架をも忘れてはなりません。
そして、第3、最後に、「わたしに従いなさい」と命じられます。
主イエスに従うということは、主イエスの御心に従うということです。主イエスの御心に従うということは、今いる自分の立場に主イエスが居られたら、「主イエスならどうなさるだろうか」と考えることです。苦しい時、悲しい時、淋しい時、どうしていいかわからない時、人を愛せない時、人に裏切られた時、仕事がうまく行かない時、こんな時、「もし、主イエスが、わたしの立場に居られたら、何と言われるだろうか。どうなさるだろうか」と、一度立ち止まって考えてみることです。そして、「主イエスならこうなさるに違いない。こう言われるにちがいない」と確信したら、そのようにすることです。「主イエスならそんなことはなさらない」と思ったなら、断固として、自分もそのようにしないことです。
そのような生き方をすることが、「主イエスに従うということです」
そのためには、私たちは、主イエスのことをよく知らなければなりません。そうでなければ判断を間違えてしまいます。自分勝手なイエス像、安物の聖画のようなイエスさまでは、正しい答えは与えられません。そして、主イエスを知る方法は聖書を通してのみ知ることができるのです。
〔2007年6月24日 聖霊降臨後第4主日(C-7) 説教〕