信仰者の孤独
2007年07月01日
ルカによる福音書9:57〜58
1 「洗礼を受けたら‥‥‥」
教会の門をたたき、求道者からキリスト教信者になっていくには、だいたい一つのコースがあります。
どきどきしながら、初めて教会の礼拝に出席し、求道者となって、しばらくして教会生活に慣れた頃、牧師から「洗礼を受けませんか」と勧められて、洗礼の準備をして、洗礼を受けます。さらに勉強をして、時が来て、主教さんから堅信式を受けます。
ところが、このようにしてクリスチャンになった人たちから、私がよく言われることがあります。
「先生は、洗礼を受けるまでは、やさしく、親切にしてくれるが、洗礼や堅信式を受けたら、態度がガラッと変わる。邪険になる。全然やさしくしてくれない」と。
先に洗礼受けた先輩のクリスチャンが、洗礼の準備をしている人に、笑いながら、私の前で言っているのを聞いたことがあります。
「気つけや。この先生がやさしくしてくれるのは、今のうちだけやで。洗礼受けたら態度がガラッと変わりはるで」と。
私は、べつに自分で意識して邪険にしたり、態度を変えたりしているつもりはないのですが、結果的には、そのように言われても仕方がないようなそのような変わりかたをしているようです。
ちょっと、言い訳けをしますと、洗礼、堅信式を受けて、もう立派な一人前のクリスチャンになったのですから、ちゃんと自分で神さまに向かい合い、人からお世話してもらうだけではなく、今度は自分から人のお世話をする人になるべきだと思っているのが、そのような態度になるのかも知れません。それにしても信徒の方々を戸惑わせるような変わり方はいけないと反省したことがありました。
2 神と向かい合う者のきびしさ
よく考えてみますと、神さまを信じて生きるということは、そんなに生やさしいことではないと思います。
信徒の交わりを大切にしましょう、互いに愛し合いましょう、互いに仕え合いましょうと教えられ、婦人会や男子会、礼拝後の親睦、クリスマスにはお互いのプレゼントの交換にばっかり意識が行ってしまって、神さまと向かい合うことを忘れてしまう。楽しい交わりを保つことだけが目的になってしまって、その雰囲気だけがキリスト教、教会生活だと思ってしまうことがよくあります。
今日の福音書ルカ9:57〜62は、そのような私たちに、神さまに従って生きようとする者のきびしさを教えてくれえます。
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
主イエスは、弟子たちと共に宣教の旅を続けておられます。主イエスには立派な家があって、そこに定住していたわけではありません。はじめから立派な教会や礼拝堂があったわけでもありません。
ある時には、受け入れてくれる人の家に泊めてもらい、ある時には、野宿をしながら、町や村に出かけて、宣教活動をしておられました。
ある人が主イエスに近づいきて、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。主イエスから「わたしに従って来なさい」と言われたのではなく、自分の方から、自発的に「どこへでも従っていきます」と申し出たのです。
これに対する主イエスの答えは、まことに冷ややかな言葉でした。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」野に住む獣も地面の下や岩のかげに巣をつくり、そこで休むことができる。空の鳥でも木の上に巣をつくって住む所を持っている。しかし、「人の子」、この言葉は主イエスご自身を指している言葉ですが、私には枕する所もない。定住する家も、安らかに眠るベッドも、自分の枕さえない、お前は、そのような生活に耐えられるのかと言われます。
伝道者の孤独、伝道者のきびしさを言って、この人の申し出でを拒否されました。安易な気持ち、調子のいい思いつきでは耐えられないと諭されました。
3 信仰者の孤独
主イエスに従おうとする者は、すべて自分の家を持ってはいけませんとか、ベッドやふとん、自分の枕さえ捨てなさいと言っているのではありません。
私たちが、神さまに向かい合って生きることのきびしさ、主イエスに従うことのきびしさを言っているのです。
まず、第1に、わたしたちが、神さまに向かい合っているときは、いつも一対一の関係です。「あなた」と「わたし」です。誰かが横についていて、言うべきこと、するべきことをいつも教えてもらうというわけにはいきません。神さまとわたしとはは「個人面談」です。
第2に、私たちの「今」が問われます。過去の業績や、先祖の名や、教会生活の長さや年齢は、問題にされません。「あなたは、今、それでいいのか」と、問われます。私たちはこれに答えなければなりません。
私たちが人生を終え、神さまの所へもどっていく時、一人で、みんな一人ずつ、神さまのもとに歩いていく姿を想像します。
一人で神さまの前に立つ私たち。「信仰者の孤独」をかみしめたいと思います。
〔2007年7月1日 聖霊降臨後第5主日(C-8)説教〕