『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
2007年07月08日
ルカによる福音書10:1〜12、16〜20
1 弟子たちへの教育訓練。
主イエスには12人の弟子たちがいたことはよく知られています。12弟子は、いつも主イエスの一番近くにいて、教えを聞き、主イエスがなさることを見ていました。
今日の福音書、ルカによる福音書10章の最初のところには、「その後、主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた」(10:1)と記されています。
主イエスのまわりには、12弟子のほかに、72人の弟子たちがいたことがわかります。
主イエスは、あちこちの村や町で、人々に福音を伝え、日々宣教活動をしておられましたが、さらにもう一つ、だいじな仕事がありました。それは、弟子たちに教え、弟子たちを訓練するということです。
ルカによる福音書の9章、10章には、そのことにつとめておられる主イエスの姿が記されています。
第1に 12人の弟子たちを呼び集め、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり、そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすためにお遣わしになりました。(9:1-6)
第2に、5千人の人々にパンと魚を食べさせるという奇跡をお見せになりました。(9:10-17)
第3に、主イエスは「群衆はわたしのことを何者だと言っているかとお尋ねになり、弟子たちが「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と答えると、さらに主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになり、ペトロは「神からのメシアです」と答えました。(9:18-20) このようにして正しい信仰告白を引き出しておられます。
第4に、主イエスは、弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と、十字架につけられて殺されること、そして3日目によみがえることを予告され、さらに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と教えられました。(9:21-24)
第5に、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人に対して、主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われ、
また、別の人に、「わたしに従いなさい」と言われ、その人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いますと、主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」すると主イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。宣教者、伝道者のきびしさを教えておられます。
このようにして、主イエスは、これでもかこれでもかというほど、弟子たちに教え、そして訓練しておられます。
2 「神の国は近づいた」と言え。
その上で、72人の弟子たちを、お遣わしになりました。ご自分がこれから行こうとする町や村へ、先遣隊、先発隊として、二人ずつペアを組んで、出発させました。
その出発に先立ち、いろいろと注意をされました。
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(10:3-9)
彼らを先に遣わす目的は「神の国はあなたがたに近づいた」ということを、その村や町の人々に告げ知らせることにありました。
そのために病人をいやすという奇跡を行う権威をお与えになりました。あくまでも「神の国はあなたがたに近づいた」ということを、人々に告げ知らせることが、その目的でした。
3 絶対君主制度である「神の王国」
主イエスは、たびたび、弟子たちに「神の国は近づいた」とか「神の国は近づいたことを知れ」とか、「神の国を言い広めなさい」とか、「神の国にふさわしくない」また「まず、神の国と神の義を求めなさい」とか言われました。
それでは、「神の国」とは、何でしょうか。
「神の国」は、「天国」とか「永遠の生命」という言葉と同義語です。天国というのは死んでから行く所だと思っている人がいます。
死んでから天国へ行くために、今、一生懸命に神さまを信じて、主イエスの教えに従い、善い行いをしなければならないと考えている人もいます。天の国と言って空を仰いでも、天国はどこにあるのかわかりません。
ルカ福音書17:20-21によりますと、
ある時に、ファリサイ派の人々が、主イエスに、神の国はいつ来るのかと尋ねました。これに対して、主イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。じつに、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。
「神の国」という言葉は、聖書が最初に書かれた言葉ギリシャ語によりますと「バシレイア セウー」と言います。これが英語では、Kingdom of God と訳されています。私たちが習った英語では、国という言葉は、contoryとか、nationという言葉で知っています。しかし、聖書で使われている「神の国」の国は、Kingdom という言葉で表されています。その意味は、「王国」、王様が治める国、王が支配する国という意味です。
私たちは今民主主義を原則とする社会に住んでいます。戦後、主権在民と言って、政治を行う人を国民が選挙で選びます。国民から選挙で選ばれた人たちが、国民を代表して国の法律をつくり、国を治めます。長い歴史の中で、そのように政治形態が進んできたわけですが、かつて、中世とかその以前の時代には、王や君主が国を治めていました。
それも世襲制で、王の意志のままに政治を行い、王の命令が法律となり、王が国民の生活を守るのですが、必ずしもよい王様ばかりではなく、わがままな王や横暴な王がいて、そのために国民は苦しめられてきました。王の意志は絶対で、王の意志が大臣や家来、農民や商人の一人一人まで、国のすみずみまで伝わり、王の命令が徹底される時、王が尊重され、王の権威が尊ばれる時、その国は栄えました。国民のために王がいるのではなく、王のために国民、民がいる。そのような考えのうえに立っている専制君主制度というものがありました。
聖書の時代は、古代のそのような専制君主政治が行われ、それが当たり前の時代ですから、主イエスが「神の国」と言うと、神が支配する国、神の意志が、神の命令が国のすみずみまで徹底される国、そのような状態を指して言われるのです。
「良い王」である神は民を守ります。そのためには神の権威が尊ばれ、神のみ心が一人一人の心の中によく伝えられ、神の命令が徹底し、神の意志の通りものごとが運ばれるとき、民はほんとうの安心と平和がもたらされ、その国は栄えるのです。
4 神の国は近づいた。
神の国は、民主主義ではありません。主権在民でもありません。神の国では、主権は神にあります。神は人々の願いや求めることを聴いてくれますが、最後は毅然として、ご自分の意志を行われます。 民が王の顔色をうかがい、王の栄光、名誉をたたえるように、私たちも、いつも神が喜ばれることをうかがい、神をさんびし、神に感謝をささげます。
聖書は、いつも、このような神と私たち人間の関係、そのような状態を前提として語られています。
ところが、現実の世界では、このような神の支配が徹底されません。民は、神の命令や意志、ほんとうのみ心のあるところを知ろうとしないで、口先だけは「神さま、神さま」と言いながら、自分の意志、自分の欲望を優先させ、神の命令に背き続けます。このように、神に背いている状態を「罪」と言います。その結果、神と私たち人間との間には大きな断絶が起こります。
よい王である神は、それでも、ご自分の民である人々を愛し、国民を守ろうとされます。人間の罪のためにできてしまった断絶を取り除けようとされます。
神は、その独り子をこの世にお遣わしになり、神の意志を知らせ、その関係を回復しようとなさいます。いや、そのようにしてくださいました。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、たしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(�汽茱魯�4:9-10)
良い王である神が、そのようにしてくださる動機は、「愛」です。
弟子たちを派遣するに際して、「神の国が近づいた」と言い広めなさいと、主イエスが命じられたのは、「神の国すなわち、王である神の支配が徹底される時が近づいた。神は、独り子であるわたしをこの世にお遣わしになった。神の子が来ているのだ。このわたしがあなたがたと共にいるということが神の国である。今、その状態が近づいているのだ」ということなのです。ご自分の鼻の先を指さしながら「じつにあなたがたの間にある」と言っておられます。
しかし、残念ながら、弟子たちが、そのことのほんとうの意味を知ったのは、主イエスが十字架につけられて殺され、復活されたという出来事があった後のことでした。
私たちは、「神の国」がすでに到来していることを知っています。そのことを確認するために、記念するために、その恵みに感謝し、神をさんびするために聖餐式を行います。
聖餐式は、神の国の宴であり、感謝とさんびの祭りです。
〔2007年7月8日 聖霊降臨後第8主日(C-9) 説教〕