善いサマリア人
2007年07月14日
ルカによる福音書10:25〜37
ある時、一人の律法学者が主イエスのところに来ました。この人は、律法の専門家で、主イエスを試そうとして言いました。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。
「永遠の命」とは、天国、神の国、救いということと同じ意味です。ユダヤ教の律法の専門家、教師が、主イエスに向かって最も基本的なこと、しかし誰でも求めている最も難しいことを尋ねてきたのでした。
主イエスは言われました。
「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」 主イエスから反対に問い返されて、この律法学者は、律法の専門家として答えないわけにはいきません。そこで、彼はすぐに答えました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
これは、旧約聖書に記されている言葉です。申命記6章4節、5節に次のように記されています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」さらにこの言葉は、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(6節〜9節)とあります。
さらに、レビ記の19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と記されています。
ユダヤ人は、小さい子どもの頃から繰り返しこのことが教えられ、これを書いたものを手に結び、額につけ、家の戸口や柱にも書いて張っておきなさいと命じられています。誰でも知っている基本的な律法の言葉でした。
主イエスは言われました。
「その通り。分かっているではないか。あなたの答えは正しい。わかっているのだから、それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と。
この律法学者は、主イエスを試そうとして、主イエスをやりこめようとして、主イエスに議論をしかけてきたのです。大勢の人たちが、この様子を見ています。ところが、律法学者は、反対に、主イエスから質問され、自分で答えさせられてしまったのです。大衆の面前で、自分の面子が立ちません。そこで、彼は自分を正当化しようとして言いました。
「では、わたしの隣人とはだれですか」と言って、問い直しました。これについてお答えになったのが、「善いサマリア人のたとえ」です。
「ある旅人が、エルサレムからエリコへ下って行く途中のことでした。人通りも少ないさびしい荒れ野の真ん中の道で、強盗に襲われました。強盗は、この旅人の持ち物を全部奪い、この人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして立ち去っていきました。
道端に倒れて助けを求めていますと、ある祭司がたまたまその道を下って来ました。ところが、傷つき倒れているこの旅人を見ると、道の向こう側を通って、見て見ぬふりをして行ってしまいました。 しばらくすると、同じように、レビ人がやって来て、虫の息で助けを求めている、その旅人が倒れているところにやって来ましたが、その人を見ると、やはり道の向こう側を通って行ってしまいました。 ところが、さらにしばらくこの旅人が助けを求めていると、一人のサマリア人が旅をしてそこを通りかかりました。そのサマリア人は、この旅人が倒れてうめいているのに気づき、そのそばに寄ってきて、その旅人の姿を見て憐れに思い、近寄って手当てをしました。 傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、応急処置をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚(1デナリオンは、当時の1日の賃金)を財布から取り出して、宿屋の主人に渡して言いました。
『この人を介抱してあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』このサマリア人はこう言って旅を続けて行きました。」
このようなたとえ話をしてから、主イエスは、先ほどの律法学者に尋ねました。
「さて、あなたは、最初に通りかかった祭司、二番目に通りかかったレビ人、そして最後のサマリア人、この三人の中で、誰が強盗に襲われた旅人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言いました。「その人を助けた人です。」
そこで、イエスは言われました。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
これがよく知られている「善いサマリア人」のたとえです。
このたとえから、二つのことを考えたいと思います。
第1のことは、最初に、傷ついた旅人のそばを通りかかった祭司とレビ人の気持ちです。
祭司というのは、エルサレムの神殿で、直接神の聖なるものに触れることのできる神に仕える立場の人です。宗教家であり、ユダヤ社会で地位を持っている人です。誰が見ても祭司だと分かる立派な服装をして、たぶん馬に乗ってそこを通りかかったのだと思います。
レビ人というのは、イスラエルの12部族の中の1部族で、イスラエルの民が放浪している時代には、「契約の箱」を担ぎ、神に奉仕する人の一族でありました。神殿が築かれてからも神殿を守り、神殿に仕える特別に選ばれた民でした。
祭司も、レビ人もともに、神に仕え、神殿で奉仕する、宗教的特権を持った人たちでした。
誰も見ていない、さびしい荒れ野の道です。あきらかに強盗に襲われ、身ぐるみはがれ、傷ついてうめいている旅人が、そこに倒れています。とっさに、かかわりたくない、かかわると面倒だ、服が汚れる、予定があって先を急ぐ、ひょっとすると金銭的損失を蒙るなど、さまざまなことが思い浮かんだのではないでしょうか。
誰も見ていないので、見て見ぬふりをして、道の向こう側を通り過ぎました。あとのサマリア人のしたことと反対のことをしました。 彼らは、傷ついた旅人のそばに寄りませんでした。憐れに思いませんでした。傷の手当てをしませんでした。自分の馬やろばに乗せませんでした。宿屋に連れて行きませんでした。そこで介抱しませんでした。傷ついた旅人を寝かせて先に旅立とうとする時、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して後のことを頼みませんでした。それで足りなければ帰りにわたしが払いますからと言いませんでした。
見て見ぬふりをして通り過ぎた祭司とレビ人の思いや行動は、しかし、ある意味では、現代に住む私たちの姿を表しているのではないでしょうか。私たちの感覚では、「なぜ、そこまでしなければならないの?」と言ってしまいそうな気がします。現代社会においては、祭司やレビ人の思いや姿勢の方が常識的、当たり前なのかもしれません。
そこに倒れている人が、自分の子どもであったり、親であったり、兄弟であったり、恋人であったり、親友であったらどうでしょうか。 言われなくても、かけ寄り、抱き上げ、介抱し、自分のことはどうなっても何とかしようとするでしょう。
では、それができるのは人間関係において、どの範囲まででしょうか。「そこまでしなくっても」という範囲をきめる線はどこに引けばいいのでしょうか。
律法学者が、主イエスに尋ねた問い、自分を正当化しようとして、自分の体面を保つために吹きかけた質問は、実はそこにあります。
「では、わたしの隣人とはだれですか」
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えさせられました。
「それぐらい、わたしにも分かっていますよ。では、わたしの隣人とは誰ですか。愛すべき隣人と、愛する必要のない隣人とどこで線を引けばいいのですか。どの範囲の人間関係を隣人と言えばいいのですか」と尋ねたのです。
第2のことは、主イエスが言われた「さて、あなたはこの三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」という主イエスの言葉に注意したいと思います。
この善いサマリア人のたとえの中で、「誰がこの傷ついた旅人の隣人になったと思うのか」と問われました。誰が見ても、誰が聞いても、それはサマリア人であることが分かります。このサマリア人は、強盗に襲われた旅人と、今まで出会ったこともありませんし、特別の関係もありません。しかし、このサマリア人は、近くに寄って「その人を見て憐れに思い」、自分の損得を忘れて、至れり尽せりの世話をしたのです。
「誰が、わたしの隣人ですか」という律法学者の問いに対して、
「誰が、この人の隣人になったのか」という主イエスの問いは、隣人の範囲を自分で決めてかかり、神の掟、律法を自分の都合のよいように守ろうとする律法学者と、今、目の前にいるこの人、今、叫び、うめき、助けを求めている人すべてを、隣人とする主イエスとの違いが分かります。
永遠の命を継ぐ者となるためには、神の掟を、神の命令を、自分で水増ししたり、自分に都合のいいように曲げて解釈しないで、忠実に守りなさい。わかっているのだったらそのように実行しなさいと言われました。
主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12〜13)
と教えられました。
私たちが友のために命を捨てるということは、友のためにどれほど自分の思いを変更できるかということです。それが命を捨てることだと思います。最も身近な人のために、またそれ以外の人のために、自分の予定、自分のスケジュール、自分の欲や得を捨て、自分の思いを捨てて、どれほどその人を受け入れることができるかということです。
この人は隣人、この人は隣人ではないと、自分で隣人の範囲を定めて、自分の都合に合わせて、自分の枠の中にはまる人だけを愛するというのは、主イエスが求めておられる愛ではありません。誰がわたしの隣人なのですかではなく、私たち自身が、どれほど多くの人の隣人になれるかが問われています。
〔2007年7月15日 聖霊降臨後第7主日(C-10) 説教〕