だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる。

2007年09月01日
ルカによる福音書14:1、7〜11  今日の福音書のテーマは、「謙遜、謙虚」ということです。  主イエスは、ここで謙遜でありなさい、謙虚な人でありなさいと教えておられますが、それは、私たちが日頃教えられている道徳として、謙譲の美徳とか、あの人は謙遜な人だ、人格者というようなこととは違います。  神との関係で、謙遜であること、ほんとうの信仰を持つためには、神の前に謙遜でなければならないということが教えられており、そして、その結果、人と人との関係においても、謙遜であることが求められます。反対に、謙遜、謙虚であることの反対は、傲慢、高慢、高ぶることにあります。その姿勢が、信仰生活の妨げになることが教えられています。  イエスの時代のユダヤ教―ファリサイ派(律法学者)、サドカイ派(神殿の祭司たち)、熱心党、ヘロデ党など、いくつかのグループがありました。  その中でも、ファリサイ派は最大の派閥でした。彼らは、旧約聖書全体を律法とし、それ以外のにも有名なラビ(教師)が行った律法の解釈、昔からの言い伝えなど、膨大な量の掟を律法として守っていました。    ファリサイ派の人たちは、小さい時から徹底した律法教育を受け、律法を暗記し、解釈し、これを守りました。自分たちだけが律法を守るだけではなく、人にも律法を守ることを強制し、律法を守らない人、律法を知らない人を罪人と断定してゆるさない、そのような人を軽蔑したり、差別したりしていました。  ユダヤ民族の長い歴史の中で、ファリサイ派すなわち律法中心主義が生まれ、先祖代々長い伝統を持ち、誇りを持ってこれを守ってきましたから、律法を守ることに命をかけ、律法を守ることが信仰であり、掟を守ることが神によって救われる唯一の道であると信じていました。  そこから生まれて来る考え方は、律法を守っている自分たちは「いつもでも正しい」とし、それ以外の人たちを非難しました。神の掟、律法を守ることは正しいことです。しかし、主イエスの時代には、彼らの考えや行動は、「これさえ守っていればいい」「自分たちだけが正しい人だ」という考え方になり、律法を守ることが、形式化し、形骸化し、偽善者的なものとなっていきました。たとえば、安息日論争。しばしば、主イエスは、彼らと論争し、彼らの考え方や姿勢を徹底的に攻撃し、やりこめた。彼らに「偽善者だ」と言い、「犬どもを警戒せよ」と弟子たちに厳しく教えました。  ある時に、主イエスは、ファリサイ派の議員の家の食事の席に招待されました。議員という立場からすると、それなりの地位や立場にいる人たち、その多くはファリサイ派、律法の専門家たちであっただろうと思われます。  今、言いましたように、「われこそは正しい」「自分こそは誰からも尊敬されるべきだ」「自分は正しい人なのだからそのように扱われるべきだ」と考えているひとたちばかりでした。  そのような人たちの集まりでですから、まず食事の席につく状況が想像されます。  「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」(14:7)  「結婚の宴会に招かれたら、自分で上席に着こうとするな。末席に座るようにしなさい。もし、自分より身分の高い人が招かれていて、その宴会に招待した主人が来て、「この方に席を譲ってください」とみんなの前で言われたら、大勢の人々の前で恥をかくことになる。自分で末席に座っていると、主人が来て、「もっと上席に進んでください」と言われると、はんたいに大勢の人々の前で面目を施すことになる。」  このようなたとえを語られて、最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。  わたしたちの社会でも、このような情景によく出会います。日本人の場合、反対に自分が先に下座に座り、「どうぞ、どうぞ」上座を譲りあっています。しかし、それを素直に聞いて、誰かが自分より上座に座ると、そのことが気になり、「あの人よりわたしの方が上に座るべきなのに」と、心の中でこだわっていることがあります。  主イエスの教えは、単に食事の席での上席、末席の問題ではなく、ファリサイ派の人たちの考え方や日頃の生活の姿勢を非難し、いかにあるべきかを語っておられます。  また、別の場面で、主イエスの教えを一部始終聞いてあざ笑ったファリサイ派の人々に対して、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(ルカ16:5)と言われました。  ファリサイ派の人々が「自分の正しさを見せびらかす」「自分を正しい」と思いこんでいるところに問題がと言われるのです。  主イエスの語ったたとえの結びの言葉、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」について考えてみますと、それでは、誰が高ぶる者を低くし、誰がへりくだる者を高くされるのかということです。  それは、神です。その主語は「神」であり、「人の前で、どんなに良い格好をしてみても、正しさを見せびらかしても、神は、あなたたちの心の中をご存じである。人には立派そうに見えても、尊ばれていようともも、神にはそのような人は忌み嫌われるのだ」と言われるのです。  箴言16:5「すべて心に高ぶる者は主に憎まれる。確かに罰は免れない。」  イザヤ2:11「その日には、目を上げて高ぶる者は低くせられ、おごる者はかがめられ、主のみ高く上げられる。」  イザヤ5:15「人はかがめられ、人は低くせられ、高ぶる者の目は低くされる。」  ローマ12:16、パウロは「互いに思うことを一つにし、高ぶった思いを抱かず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分たちが知者だと思い上がってはならない。」  ヤコブ4:10「主のみ前にへりくだれ、そうすれば主はあなたを高くしてくださるであろう。」  今日の旧約聖書で読まれた「旧約聖書続編」シラ書(集会の書)にも、述べられています。  「高慢は、主にも人にも嫌われ、不正は、そのいずれからも非難される。‥‥高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。高慢の初めは、罪である。高慢であり続ける者は、忌まわしい悪事を雨のように降らす。それゆえ、主は想像を絶する罰を下し、彼らを滅ぼし尽くされた。主は、支配者たちをその王座から降ろし、代わりに、謙遜な人をその座につけられた。人間は、高慢であってはならず、女から生まれた者は、激しい憤りを抱いてはならないのだ。」  謙遜であること。謙虚であること。それは、私たちが信仰を求める者の姿勢として、最も初歩的な、基本的な条件です。「神を信じる信仰を持ちたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と問われたら、それは、何よりも、まず「神の前に謙遜になること、謙虚になることだ」と言うことができます。謙遜、謙虚でなければ、神のみ言葉を聴き、神のみ心に従うことはできません。  反対に、傲慢、高慢、それは、私たちの信仰の敵であります。自分自身が神のようになってしまうことになります。  謙遜そうな顔をする、へりくだった言葉づかいをする、立ち居振る舞いをするということと、ほんとうに「謙遜、謙虚」であるということは違います。顔や口先では謙遜そうな姿勢をとりながら、心の中では反対のことを考えていたり、単に社交儀礼であったりすると、これは、反対に大きな傲慢の罪を犯していることになります。  まず、神の前に、ほんとうにへりくだる者でなければなりません。人には分からなくても、私たちの心の中まで見通しておられる、すべてをご存じの、神の前に「謙遜」でなければなりません。神の前に、ほんとうに謙虚であることができる者は、人の前で、人と人との関係において、はじめてほんとうの謙遜、謙虚さを持つことができます。  私たちの信仰が、ファリサイ派の人々が持っていた信仰、主イエスから「偽善者だ」と言われた、そのような信仰になっていないでしょうか。私たちの日頃の生活の中での発想が、ファリサイ派的な発想になっていないでしょうか。  神よ、神よ、と口先で言いながら、ほんとうに神を畏れ、神のみ心に従う気がない、自分の心を、神のみ心だとしてしまっていることはないでしょうか。  私たちの信仰生活や礼拝が、上辺だけで、偽善的になっていないでしょうか。  ふり返ってみますと、私たちはお祈りをする時でさえ、神にとんでもない傲慢なことを願い、祈っていることがあります。主イエスは、「求めなさい。どんなことでも願いなさい。祈り求めなさい」と言われました。それで、どんな祈りをしてもいいのですが、とんでもない傲慢な高慢な祈りをしていることがあります。あまりにも身勝手な祈り、自分を正当化し、神に強要し、神を脅迫し、神に命令し、神に教えてあげているようなお祈りをしていることはないでしょうか。  祈りをささげるということは信仰深い行いですが、そのような時でさえ、傲慢になっていることがあります。  私たちの祈りは、「主イエスよ、憐れみをお与えください。キリストよ、憐れみをお与えください」を繰り返すことに尽きます。私たちが神の前に立つとき、ただ言えることは、この言葉を繰り返すだけです。  私たちが、どんなに神さまのいろいろなことをお願いしても、最後には「主のみ心が、行われますように」でなければなりません。  神は、だれに対しても、「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高め」られます。         〔2007年9月2日 聖霊降臨後第14主日(Cー17)〕