抜け目のないやり方をほめた。

2007年09月23日
ルカ16:1〜8  私たちは、何のために教会生活をしているのでしょうか?  私たちは、何のために礼拝をしているのでしょうか?  一生懸命、神さまを信じているのは、何のためですか?  暑いときも寒いときも、雨の日も風の日も、何十年も変わらず、主日の礼拝を守り、教会の働きのために奉仕し、個人的にも朝に晩に、お祈りをしておられる、皆さんに、突然、こんな質問をするのは、失礼かも知れません。また、また、何を今さら、そんなことを言われると白ける‥‥‥と、笑われるかも知れません。  小さい時から、若い時から、ずーーと、続けていて、それが習慣になっているから。教会のお友達との交わりが大切だから、聖歌を歌って、礼拝に参加すると気持ちがいいから。お説教を聞いてためになるから、聖餐式で聖餐の恵みにあずかるから等々‥‥‥。いろいろな理由や答えが頭に浮かんでくると思います。それも大切なことですし、間違っていません。しかし、それだけでしょうか。  聖書の中で、イエスさまは、信仰や教会生活について、私たちに、そういうことを求めておられるでしょうか。  イエスさまは、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33) と教えられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」  神の国とは、神の完全な支配に置かれることです。神の義とは、神によって義とされる、義しい人とされることです。言いかえれば、それは、神との関係で、私たち一人一人が「救い」を求めなさい。救われなさい。別の言葉で言えば、「ほんとうの幸福を手にいれなさい」と言われているのです。  そのように考えますと、果たして、私たちは、神に救いを得るために、どんな努力をしているでしょうか。私たちは、救い、救われるということを、どれほど意識しているでしょうか。  そのことを、頭の中に入れながら、今日の福音書から学びたいと思います。今日の福音書は、ルカによる福音書16章1節から13節です。  この個所は、「不正な管理人」のたとえという見出しがついています。聖書の中でもいちばん難解なたとえで、主イエスは、何故このようなたとえをお話しになったのかわかりません。どのように理解すればよいのかわかろません。私が青年の時代には、この聖書の個所の解釈をめぐって議論し、世が明けてしまったことがあります。  あるところに、相当大きな財産をもっているお金持ちがいました。この金持ちは、自分の財産を管理人(=家令)に預けて管理させていました。今も資金運用会社とか管財人とか言われる人がいますが、主イエスの時代にも珍しくなかったと言われます。不在地主に代わって、大きな責任を任されて財産管理を行い、時にはその預かった財産を管理し、大きな取引をしてその財産を運用することもできました。  告げ口をする者があって、「この管理人が主人の財産を無駄遣いしている」と訴えられました。多分、いまで言う内部告発というところでしょうか。そこで、主人は、この管理人を呼んで言いました。  「どうなっているのだ。お前について聞いていることがあるが、どうなのか。すぐに会計報告を出しなさい。」  これは、主人に対して釈明するだけではなく、解雇を前提として後任者に引き継ぐために報告が必要であるということなのでしょう。  管理人は、「しまった。どうしよう」と、周章てました。  「クビになっても家族を養わねばならない。土を掘る力もないし、物乞いするのも恥ずかしい。」今さら肉体労働には体力はないし、物乞いするには、彼の地位とプライドがゆるしません。  考えたあげく、このように思いつきました。  「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作っておけばいいのだ」と、必死な気持ちの中で思いつきました。  そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言いました。  一人ひとりを呼び出して、個別に秘密の交渉を行い始めました。  「わたしの主人にいくら借りがあるのか。」  「油100バトスです。」1バトス=液体23リットルですから、2300リットルです。(ドラム缶11本以上)  すると管理人は言いました。  「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、50バトスと書き直しなさい。」  また、別の人に言いました。  「わたしの主人にいくら借りがあるのか。」  「小麦100コロス借りています。」 1コロスは、個体の容量で、230リットル。小麦で23,000リットルになります。  「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、80コロスと書き直しなさい。」  このようにして、それぞれの証文を書きかえてやりました。  それは、「管理人の仕事をやめさせられてからではどうにもならない。まだ、クビがつながっているうちに、恩を着せておいて、自分を家に迎えてくれるような者たちを作っておけばいいのだ。」と、自分が助かるために、失業しても引き取ってくれ、面倒を見てくれる人を得るために、次々とこのようにしてご主人の財産を負けてやりました。  ところが、これに対して、主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた、とあります。  このイエスさまがなさったたとえ話の結末、主人はなぜ不正な管理人をほめたのでしょうか。  この管理人は、主人の財産を無駄遣いするという罪を犯しました。それだけでも不正を行ったのに、さらに、自分の上にふりかかってきそうな危機に直面して、なりふりかまわず生き延びようとして、二重の罪を重ねています。しかし、この主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのです。  このたとえに対する解釈は、神学者の間でも大きく分かれています。  その一つは、この管理人は、一貫して不正を行っています。少しもいいことをしていません。ところが、主人がほめたのは、自分の破滅を前にして、この管理人の「利口さ」「抜け目のないやり方」に限定してほめたのだとする解釈です。  しまった、罪がばれると自分の罪を自覚して、ただ自分が滅びていくのを、手をこまねいて待っているだけではありませんでした。なりふり構わず自分が救われるために、あらゆる手段を講じて手を打った、という点で、主人はほめたのだとします。  もう一つの解釈は、「利口なやり方」というのは、必ずしも不正なやり方ではなかったという説である。  当時のユダヤ社会の背景をよく調べてみると、ユダヤ人同志で、金銭の貸し借りをする時、利息をとることは禁じられていました。  「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるよ うにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ25:35-38) しかし、金銭や食べ物などの商売をする時に、利息として別に取らないで、利息を貸し借りの金額や食べ物の量の中に含めて貸借する習慣がありました。彼らの解釈によれば、律法の精神は貧しい人たちから利息をとって、ますます貧困に追いやるようなことがあってはいけない。しかし、商取引の場合はそれで資金を運用したり持っている人たちから利息をとるのですから、貧しい人から利息を取るのとは違います。貸したものに利息を取るのは当然であると考えていました。  そこで、ある人が80石の麦を借りたとすると、取引証書には百石を借りた書いて渡し、20石の利子をつけて百石にして返すのである。それらのことは、管理人の裁量で行われていました。  これによって、この管理人は解雇されそうになった時、証文を持って来させて負債者が利子を払わなくてもよいように取りはからってやったのです。  もし、その利子を決めるのも管理人の裁量の中であれば、それは管理人の取り分も含まれていたということも出来ます。  油百バトスを、五十バトスと書き直させ、小麦百コロスを八十コロスと書き直させました。彼は主人が受け取るべき収益を横取りして将来の自分の地位、身分の安全を得ようとしたのでした。  このように解釈しますと、利子分は別として、主人は何も失っていません。反対に利子を取らなかったというので、この金持ちの評判はよくなるかもしれません。油や小麦を借りた人も利子分を負けてもらって得をしました。さらに管理人も自分のことを世話してくれる所ができました。八方まるくおさまるということで、主人はこの管理人の「抜け目のないやり方」をほめたということになります。(利口な、思慮深い行為をしたこと)  いずれにせよ、この管理人は、自ら罰せられ、破滅することに対して、何もしないでその時を待つようなことはしなかった。懸命に頭を働かせ、死にものぐるいになって、自分が助かるために、救われるために動きまわったということです。  さて、私たちは、現在という時代の中で生きているものとして、このたとえをどのように受け取ることができるでしょうか。  主人は私たちを呼びつけて言われる。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』  私たちは、自分の弱さ、醜さ、限界を知っている。  神のみ心に背き、神に背中をむけ、神を神としないで、神以外のものを神として崇めています。その状態を罪と言います。  私たちは、そのことを知っています。罪人だと自称しています。私たちの罪というのは、神さまの前に負債を積み上げているのと一緒です。ですから私たちは救いを求めています。  しかし、ほんとうに真剣に、求めているでしょうか。  それでは、聖書が私たちに与えようとする「救い」とはなんでしょうか。もう一度、思い出してください。  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」                       (ヨハネ3:16-20)  この神の子主イエスを信じて、ただひたすらこの方に従う。この方を信頼し、その与えられた恵みの感謝する。そこに救いがあるのです。  どんなことをしてでも、なりふりかまわず、そのことの確信をえるために、求めなさい、門をたたきなさい、探しなさい。  必ず、その救いは与えられます。見つけることができます。 〔2007年9月23日 聖霊降臨後第17主日(C-20)〕