主人と僕
2007年10月07日
ルカ17:7〜10
東京の秋葉原という所から始まったらしいのですが、そこには「メイド喫茶」、「コスプレ喫茶(cosutume player)」、「女中喫茶」、というものが流行っているそうです。喫茶店や軽い食事をする所なのですが、そこで世話をしてくれるウエイトレスが、メイドさんの服装をした若い女の子が「ご主人さま、お帰りなさいませ」と言って迎えてくれるそうです。そして、帰りには「気をつけてお出かけなさいませ」と言って送り出してくれるのだそうです。そのような店が1998年ごろから始まって、急激に、東京の各地から地方の街にたくさんできています。
そこに来る客は、はじめはそのようなコスプレと言われるマニアに受けたようですが、その後、話題を呼んで、ふつうのサラリーマンから、若い男性、そして女性まで、大勢集まっています。
おとながママゴトをしているような感じですが、しかし、男性でも女性でも、誰でもその心の奥には、「ご主人さま」と呼んでもらいたい、そして、従順に、かしずいてもらいたい、仕えてもらいたいという気持ちがあるのではないでしょうか。
私たちが使う聖書の言葉、祈祷書の中のお祈りの言葉には、「主」という言葉、「僕」という言葉がよく出てきます。
主というのは、神であり、イエスさまであるということは、よく知っています。そして、この主である神、イエスさまに対して、私たちが僕なのです。
これらの言葉の意味をほんとうに知るためには、主イエスの時代の奴隷制度について知らなければなりません。奴隷制度というものは、私たちは、映画や小説の世界で知るぐらいで、今の世では考えられないことですが、イエスさまの時代のには、奴隷は重要な労働力であり、市民生活は、奴隷によって支えられていました。奴隷は、人間でありながら、人間として扱われない、道具や機械のように使われ、奴隷の子は奴隷、そして売買され、生かすも殺すも所有者次第という身分制度でした。
そのような身分関係を持つ、主であり僕でありました。神と私たち人間の関係は、神が主であり、ご主人であり、これに対して、私たちは僕であり、服従する立場にあります。神と人とはそのような関係です。奴隷制度という身分制度はない時代に生きていますが、その当時のご主人と奴隷の関係を表す言葉を使っています。
さて、今日の福音書ですが、ルカの福音書の17章7節以下の所から学びたいと思います。
イエスさまは、一つのたとえをもって、神と私たちの関係について、改めて問われます。
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかしている僕、奴隷がいたとします。その僕が、一日の労働をして、畑から帰って来たとき、主人であるあなたは、「やあ、疲れただろう。お腹がすいただろう。さあさあ、手を洗って来て、すぐに食卓に着きなさい」というだろうか。どんなに疲れて帰ってきても、相手は僕、奴隷なのだから、反対に、「早く、わたしのために夕食の用意をしてくれ。服装をちゃんと整えて、わたしが食事を済ますまで、そこに立っていて給仕しなさい。お前は、私が食べた後で食事をしなさい」と言うだろうと言われました。
僕は、命じられた仕事をしたからといって、主人は、「よくやった。ありがとう。ありがとう」と、その僕に感謝するだろうか。
だから、あなたがたも同じことだ。神とあなたがたとの関係は、神が主で、あなたがたは僕なのだから、神から自分が命じられたことをみなちゃんと果たしたら、「わたしたちは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさいと、教えられます。
旧約聖書のヨブ記22章2節、3節に、このような言葉があります。
「人間が神にとって有益でありえようか。
賢い人でさえ、有益でありえようか。
あなたが正しいからといって全能者が喜び
完全な道を歩むからといって
神の利益になるだろうか。」
どんなに立派な仕事をしても、どんなに正しいことをしても、完全な道を歩いても、そのことによって神が有益になるのではない。全能者である神が喜ぶのでもない。神にとっては、当たり前のことをしただけだと言っています。
どれほどよいことをしても、立派に務めても、神はご主人であり、私たち人間は僕なのだということです。その関係は変わることはありません。
アダムとエバの物語を思い出します。
神は、アダムとエバを、エデンの園に置かれた時、園の中央の木を指して言われました。「園のどの木からも実を取って食べてもよろしい。しかし、この園の中央に生えている木の実だけは、取って食べてはいけません。これを食べると、目が開けて、神のように善悪を知るものとなる」と。
誘惑する者、ヘビがやってきてエバに言います。「いいじゃありませんか。目が開けて、賢くなって、神のようになる。いいじゃありませんか。」と、誘惑します。
神でない者が、神になってはいけない者が「神のようになる」、これほど大きな誘惑はありません。エバが、そして、アダムが、この誘惑にまけて、頭ではわかっているのですが、手が出て、これを食べてしまったのです。
そして、私たちにも、このDNAがあります。その誘惑にさらされ続けているのです。
口では、「主よ、主よ」と言いながら、それが口先だけになってしまって、私たちが考えていることや、心に思っていることは、ほんとうに僕であるという関係を忘れて、自分が神になっています。 自分が、主人になって、無意識のうちに、立場を逆転させてしまっているのです。
神とのつきあいが長くなればなるほど、言いかえれば信仰生活が長くなると、神との関係が慣れ親しみすぎて、主人と僕の関係があいまいになってしまいます。本来、厳しい方で、強い方で、すべてのことをご存じの、全知全能の神を、生きて働いておられる神を、ないがしろにし、自分のレベルに引きずり下ろしてしまっているのです。主である神を無視し、神を恐れない。神を神としない、そして、いつの間にか自分が神のようになってしまうのです。
自分が、自分がと、毎日の生活の中で、自分のことしか考えない、自分の野心や欲望を満足させることしか考えられない人は、自分の言葉や行いをふり返ってみると、いつの間か自分が主であり、神になっています。
お金や物に執着している人、寝ても覚めても、自分の得になることばかりを求め続けている人は、お金や物を神にしてしまい、偶像崇拝に陥り、やはり、ほんとうの「主」を離れてしまっています。 神にお祈りやお願いをしていても、いつの間にか、自分の心を神に押しつけるばかり、「神なら、私のいうことを聞け」と言わんばかりに神に、強制や脅迫をしていることはないでしょうか。どちらが主でどちらが僕かわからなくなっていないでしょうか。どんなお願いをしても、すべて最後には、「あなたのみ心のようになりますように」とお祈りしたいと思います。
神の国、天国とは、神を主とし、私たちが僕であることを、はっきりさせることです。その時こそ、神の支配が完全に行われます。 私たちが、「ご主人さま、ご主人さま」と言って、疑似的な関係でも、ママゴトのような関係でも、瞬間的にでも「ご主人さま」になって、かしづかれたい、服従されたい、仕えられたい、神さまのように扱われたい、その誘惑に気づきたいと思います。
神は、主と僕、神と私たちのほんとうの関係を教えるために、そのひとり子をこの世に遣わし、その命を十字架に架けて、神の恵みと愛をお与えになりました。
私たちは、神に感謝し、神の栄光をほめたたえ、生涯、神に奉仕する者でありたいと思います。そして、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と、主に申し上げたいと思います。
〔2007年10月7日 聖霊降臨後第19主日(C-22)〕