神を賛美し、感謝した。

2007年10月14日
ルカ福音書17:11〜19  本日の福音書、ルカ福音書17:11〜19から、ご一緒に学びたいと思います。  ある時、主イエスは、弟子たちと共に、ガリラヤからサマリアを通ってエルサレムに行こうとされた時、一つの出来事に出会われました。  聖書には、「サマリアとガリラヤの間を通られた」と、さらっと書いてありますが、この言葉の中に、当時の大きな問題が語られています。  主イエスの時代のパレスチナ地方の地図を頭に描いてみていただきたいと思います。地中海の東側に海岸沿いに三日月型を縦に貼り付けたように、パレスチナという地域があります。  北の方から、「ガリラヤ」そして真ん中に「サマリア」、その南に「ユダヤ」という地域に分けられていました。主イエスがマリアさんとヨセフのもとで育てられ、青年の時代まで過ごしたナザレがあるのがガリラヤ地方で、主イエスは、最初はガリラヤ地方を中心に宣教活動をなさいました。  南のユダヤ、またはユダの地方には、神殿がある都、エルサレムがあり、そこには祭司たちや律法学者、ファリサイ派と言われるユダヤ教の中心をなすユダヤ人たちがいました。まさにユダヤ教の本山ともいうべき光り輝く聖なる都がありました。  ところが、このガリラヤとユダヤの地方にはさまれている「サマリアの人びとは、同じユダヤ人でありながら、大きな差別を受けていました。それは、主イエスが現れる700年も昔、アッシリアという大国が北から攻め込んできて、ガリラヤ、サマリヤが滅ぼされました。  アッシリアの王は、サマリアに攻め込み、ガリラヤ、サマリヤの地方の人びとをアッシリアに補囚として連れ去り、偶像礼拝を強制し、他民族、異教徒との結婚を強制しました。その後、補囚から帰ったサマリアの人たちが、エルサレムの神殿の再興のために働きたいと申し出たのですが、ユダヤの人びとに断られ、さらにエルサレムではなくゲリジム山に祭壇を築いて犠牲を献げたので、サマリアとユダヤの対立が強くなり、溝が深くなってしまいました。  ユダヤ人もサマリア人も同じユダヤ人、同じアブラハムの子孫イスラエルなのですが、700年も昔の恨みや裏切りが、主イエスの時代になっても、ユダヤ人のサマリア人に対する「差別」、宗教的差別、社会的差別として残っていました。まず、第一にそのことを頭に入れておいて頂きたいと思います。    第二に、「重い皮膚病を患っている人」に対する差別です。   今、私たちが使っている「新共同訳聖書」の前に使っていた「聖書協会訳聖書」では、「らい病」をわずらっている人と記されていました。 過去の歴史で、日本においても、この「重い皮膚病を患っている人」に対して、強い偏見と差別があり、数多くの人々が苦しめられてきました。1943年、アメリカにおいてプロミンという薬が開発され、この薬によって、完治されることになりました。日本にも1947年頃からこの薬が使用され、完治するにいたったが、その後もなお、社会的、精神的な差別や偏見が続きました。らい病という言葉にはそのような差別と偏見の意味がまだ残っているので、聖書には「重い皮膚病を患っている人」という言葉で表現することになりました。  主イエスの時代ではどうだったのでしょうか。今の私たちに比べると科学的な知識や医学的な治療法を知らない時代ですから、らい病だけではなく、あらゆる病気に対する偏見が強く持たれていました。とくにこの「重い皮膚病を患っている人」に対しては、伝染すると言われ、この病気の症状から、人々から追い払われ、人里離れた山の中の谷間に群れをなして住んでいました。病気の原因はすべて悪霊の仕業であると考えられていましたから、この病気の兆候がわかると、祭司に患部を見せ、「この人は汚れている」と宣言されると、人の住む所から離れて住まねばならなりません(レビ記13章)。何かの都合で人里に近い所にやってきても、頭からすっぽり布をかぶり、人に出会ったときは「わたしは汚れている」と呼ばわらなければなりませんでした。このように重い皮膚病を患っている人は、社会的にも宗教的にも排除され、いわれのない非人間的な扱いを受けていた。生き地獄、悲惨な生活を送っていました。 「主イエスが、ある村に入られますと、重い皮膚病を患っている10人の人が、出迎えた」とあります。10人の思い皮膚病を患っている人は、どこからか主イエスの噂を聞いたのでしょうか。ナザレのイエスという方は悪霊を追い出し、多く病人の病気を癒されたと話を聞いて、何とかしてこの方にお会いしたい、自分を汚している悪霊を取り去ってほしいと願い、山奥の谷間から出てきて、主イエスを待っていたのでしょうか。彼らは、すぐに病気でない人に近づくことは赦されていません。遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて叫びました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。 まさに悲痛な叫びだったに違いありません。  主イエスは、立ち止まって、重い皮膚病を患っている人たちを見ました。「神殿に仕えている祭司たちのところに行って、あなたがたの体を祭司に見せなさい」と言われました。」  レビ記13:6によると、掟に従って、祭司がその体をよく調べ、体が白くなっていることを確認し、その祭司から「彼らは清くなった」と宣言してもらわなければ、社会復帰をすることができませんでした。 彼らは、イエスの言葉を信じて祭司の所へ行きました。そして、その途中で癒されているのを知りました。「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」とあります。  この重い皮膚病のために人間性が否定され、神に呪われた者としてレッテルを貼られ、社会からも、家族からも排除されていたこの10人の人たちが、主イエスによって癒されたのです。彼らは癒されたことを感じ、知って、躍り上がって喜んだ。神殿に行き、祭司に体を見せて、その祭司から「彼らは清くなった」と宣言してもらったに違いありません。    ところが、その後、この10人の人たちは、どうしたでしょうか。 彼らは癒されたことを感じ、知って、躍り上がって喜びました。そのうちの9人は、躍り上がって、喜んで、すぐに家に帰ってしまいました。または、そのことを伝えたい人のところへ走って行ってしまいました。  ところが、その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら、主イエスのところへ戻って来ました。そして、主イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。実は、この人はサマリア人でした。  別の言い方をすると、9人はユダヤ人でした。日頃、差別しあっている関係でも、「重い皮膚病」のために「汚れている」とレッテルを貼られている間は、いっしょに肩寄せ合って生活していました。ところが9人は、神のこと、主イエスことなど忘れてしまって、目の前の現実の生活に戻って行ってしまいました。  ところが、一人のサマリア人だけは、自分が癒されたことを知って、大声で神を賛美し、主イエスの所に戻ってきて、主イエスの足もとにひれ伏し、感謝しました。「イエスさま、ありがとうございます。私のこの体を癒してくださって有り難うございます。私は生きながら死んだような毎日を送っていました。その私が、今、生きるものとなったのです。ほんとうにあなたのお陰です。私の病気を癒す力をお持ちのあなたは、神から来られたかたに違いありません。このようにしてくださった神の御名を賛美します。神は偉大、神はすべてを支配されます。」このように言ったと思います。  そこで、主イエスは言われました。「清くされたのは10人ではなかったのか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」  「この外国人」というのは、サマリア人のことです。ユダヤ人の方からはサマリア人を、同じユダヤ人でありながら、異教徒、異邦人、外国人、異邦人と呼び、罪人というレッテルを貼って差別していたのです。  重い皮膚病だった自分たちの病いを同じように癒していただきながら、なぜこのサマリア人一人だけが主イエスの所へ帰ってきたのでしょうか。なぜ、神を賛美し、主イエスに感謝してひれ伏したのでしょうか。  第一に、このサマリア人は、ほんとうに差別される苦しさ、恐ろしさを知っていた、自分を罪人だと認めることができていた人でした。  ユダヤ人は、ファリサイ人や律法学舎だけではなく、ユダヤ人は神によって選ばれた民、救われて当たり前、他の罪人は滅びて当然だと考えていました。その傲慢さがサマリア人を差別することによって教えられてきたのですが、同じ「重い皮膚病」にかかり、「汚れた物」という罪人のレッテルを貼られた時には、肩寄せ合って共に群れをつくっていたのです。ところが、その「重い皮膚病」が癒され、「清い者になった」と宣言された時には、人から受けた痛みや苦痛を忘れ、自分たちは救われて当然という姿勢に戻ってしまいました。傲慢な神との関係、神に思いを至らせることさえ、吹っ飛んでしまったといえます。  これに対して、サマリア人の姿勢は、重い皮膚病は癒されても、ユダヤ人から差別され、罪人として扱われ、教えられている姿は変わりません。このような私でも癒していただいた、清めていただいたという感謝と賛美の思いは、誰よりも大きく、まず、神を賛美し、感謝せずにはいられませんでした。  第二に、主イエスは言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  この瞬間に、このサマリア人は、はじめて救われたことになります。 言いかえれば、あとの9人の人たちは、ほんとうの救いというものを体験していないということになります。  この、主イエスの言葉は、私たちに「ほんとうに救われる」とはどういうことかということを考えさせます。  最初に、10人は、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」とお願いしました。私たちを救ってくださいとお願いしました。「憐れんでください」と謙虚な姿勢でお願いしました。病気が治ること、今、目の前の苦痛や悩みが取り除けられること、それだけが救われることだとすれば、ほんとうの救いとは何でしょうか。一時的に少し命が延ばされても、人は、いずれ必ずしにます。そういうものを求めているのでしょうか。世に言う「御利益宗教」とかわりはありません。  ほんとうの救いとは、その向こうにある私たちと神との関係がどのようにあるかということです。神を賛美し、神に感謝をささげる、それは神と私たちの関係を表しています。それができた時、ほんとうの救いが約束されます。  私たちが、心から神に感謝し、心から神を賛美する。それは、私たちが生きるための原動力になります。  「大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」これは、礼拝する人の姿です。  私たちは聖餐式を続けます。聖餐式は、「感謝と賛美の祭り」です。 〔2007年10月14日 聖霊降臨後第20主日(C-23)〕