「やもめと裁判官」のたとえ

2007年10月21日
ルカ18:1〜8  今、読まれた福音書から学びたいと思います。  ここに、主イエスは、「やもめと裁判官」のたとえを話されました。このたとえで言おうとしていることは、ひとくちに言えば、最初に書かれています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」弟子たちにこのたとえを話されたと記されています。  「気を落とさずに」とは、あきらめないで、失望しないで、ということで、どんなことがあってもあきらめないで、失望しないで祈り続けなさいということです。  ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。とんでもない裁判官で、神を恐れない、人のいうことも聞かない、わがままな明らかに正しい裁判をしない裁判官でした。  このような裁判官の所に一人のやもめが来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えました。  やもめというのは未亡人のことです。その当時、「やもめ、みなしご」というのは、社会的にもっとも虐げられている弱い者の代表とされていました。  詩編の82編2節〜4節に「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い神に逆らう者の手から助け出せ。」と神が言われた言葉があります。  このやもめが訴えている訴えの内容については何もわかりません。わずかなお金を取り上げられようとしているとか、長年住み慣れた家から追い出されようとしているとか、このやもめにひどい仕打ちをしている人がいたのだと思います。これを止めさせてほしいと訴えているのだと思います。  この裁判官は、人を人とも思わない裁判官ですから、そのようなやもめのいうことなどには耳を傾けようともしません。最初は、放っていました。やもめは、朝でも昼でも晩でも、しつこくしつこく訴えてきます。裁判官は、しばらくの間は取り合おうともしませんでした。  ところがあまりにしつこく訴えてくるものですから、とうとう最後には、思わずこのような独り言をいいました。  「わしは神など畏れないし、人を人とも思わない裁判官だ。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない。夜もおちおち眠れない。仕方がないからあのやもめのために裁判をしてやろう。そうでないと、いつまでもひっきりなしにやって来て、わしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」  聖書のたとえには、どのような結末になったかは記されていません。このとんでもない裁判官は、すぐに関係者を呼び出して裁判を開き、このやもめの有利なような裁判をしてやったと想像することができます。  主イエスは、このようなたとえを話されてから言われました。  「この不正な裁判官の言いぐさ(独り言)を聞きなさい。このような神を恐れず、人を人とも思わないとんでもない裁判官でも、しつこくしつこく訴え続けたやもめには、耳を傾け、心を動かしたではないか。まして、神は、正しい方で、すべての人びとの声に耳を傾けておられる。さらに、選ばれた民と言われる人びとの昼も夜も叫び求めている声を聞き、裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれるはずがあるだろうか。神は速やかに裁いてくださる。」  私たちは、洗礼を受け「神の子」とされ、選ばれた者となったものです。私たちが朝も昼も晩も、祈り願うことは、必ず聞いてくださる。あきらめず、このやもめのようにしつこく、願い求めなさい。  これが、今日、聖書を読む私たちへの教えです。  しかし、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。  なぜ、主イエスは、突然、このような「たとえ」を語られたのかということです。  ルカの福音書の続き具合を調べてみたいと思います。  今日の福音書ルカ18:1〜8の前に、このような話が記されているのです。 ルカ17:20〜37  ある時、ファリサイ派の人々が、主イエスの所に来て「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。主イエスは答えて言われました。  「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」  それから、今度は、弟子たちに向かって言われました。  「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。  『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。  しかし、人の子は、まず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。  ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御 覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(創世記6:5〜8)  ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。  「太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、「主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。  アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に 留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(創世記19:23〜29)  人の子が現れる日にも、同じことが起こる。 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。  ロトの妻のことを思い出しなさい。  自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。  言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。  そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」  主イエスは、弟子たちとのこのような会話のすぐ後で、今日の福音書にあるたとえを語られたのです。「気を落とさずに絶えず祈りなさい」と。  そんな、世の終わりのような大変な出来事は、いつ、どこで起こるのですかという弟子たちの問いに「それは、いつ、どこででも起こり得る」と答え、そして、その日のために、その時のために、気を落とさずに絶えず祈りなさいと、このようなたとえをなさいました。その背景には、切迫した危機感があります。どうしたらいいのかと、周章てふためく弟子たちにできることは、朝も昼も晩も、あのやもめのように、訴え続け、祈り、願うことだと教えておられます。  聖書が書かれた時代の教会では、このような「世の終わりがやってくる」という終末思想が強く、一人一人が持っている信仰は、非常に緊張したもので、その時が近いという雰囲気に包まれていました。その時は、突然やってくる。しかし、それは、いつ、どのようなかたちでやってくるのかわからない。  世の終わりの時は、神の裁きの時であり、「人の子」すなわち主イエスが再び現れる時だと信じられていました。不安と恐怖とともに、希望と主イエスに再びお会いできる喜びを期待する思いとが入り交じった興奮をもってその時を待っていました。  そのような世の終わりの時を見据えながら、今、この時をどのように生きるかということが、初代教会の信仰の中心でありました。  その当時から、約二千年が経ち、しかし、未だこの世は続いています。その間に、終末思想、世の終わりは近いという切迫感、緊張はなくなっています。しかし、聖書が予言している終末はほんとうになくなったのでしょうか。無用な恐怖心を抱かせたり、脅かしたりするつもりはありませんが、終末というものは、ほんとうになくなったのでしょうか。ないのでしょうか。  現在、起こっている地球と取り巻くさまざまな出来事を見るとき、聖書の終末ということをもう一度真剣に考えなければならないと思います。  世の終わりと共に、自分自身に終わりの時があるということについても考えなければなりません。私たちに与えられている「時」は、いつまでも続くのではなく、それぞれに「限られた時」であることを考えなおしてみたいと思います。  終わりから自分の生き方をふり返る、それが「終末観的信仰」だと思います。  本日の福音書、「裁判官とやもめのたとえ」の最後の主イエスの言葉、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」は、私たちに向かって語られた言葉です。  �汽謄汽蹈縫�5:17、18 「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」     〔2007年10月21日 聖霊降臨後第21主日(C-24)〕