高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

2007年10月28日
ルカ福音書18:9〜14 1 ファリサイ派の人の罪   ルカ福音書には、ルカだけに記されている「たとえ」が13あります。今日の福音書の個所は、その一つで、どのように祈るべきかを教えています。イエスさまは、自分は「正しい人間」だとうぬぼれ、他人を見下している人々に語られました。ファリサイ派という特定の人たちに向かって語られた「たとえ」であることがわかります。  ファリサイ派といわれれる一派の人たちは、当時のユダヤ社会では上流社会に属する人たちで、子供の頃から律法を厳しく教えられ、これを学び、自分たちこそはユダヤ教の指導者であると自認する人たちでした。  第1に、彼らは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」いる人たちでありました。主イエスは、たびたびこのファリサイ派の人たちを厳しく非難されました。彼らは、自分たちは正しい、だから自分たちは神から救われ当然だと思っていて、自信を持っています。自分たちは誰よりも神を信じ、神の律法を守っていると言います。しかし、主イエスは、彼らは口では「神よ、神よ」と言いながら、実は神を頼りにしているのではなく、自分自身をよりどころにして生きている人たちだと非難しました。彼らは、神を信じると言いながら、神よりも自分を信じているという何よりも大きな罪を犯していることに気がつきません。  第2に、「他人を見下している人々」でありました。自分以外のすべての人を自分より劣っているものとして蔑み、くだらぬ人間だと思っていました。いつも、自分を人と比較して評価し、いわれのない優越感を支えにして生きています。自分を誇り、他人を見下す罪の中にいる人たちだったということができます。 2 ファリサイ派の人の祈り  「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。」立って祈るというのはユダヤ人の一般的な習慣でした。それだけではなく、ファリサイ人は人々の注目を集めるために、なるべく目立つ所に立って、ことさら厳かな顔をして信心深そうな姿勢を見せて祈っていました。信心深そうな祈りの格好はしていますが、これとは反対に、心の中では、人に聞かせられないような厚かましい傲慢な祈りをしていました。だれも大声を出して人前で高慢な祈りをする人はいません。しかし、心の中では、姿、かたちとはまったく別の祈りをしていることがあります。そこには本心があらわれます。  このファリサイ派の人は心の中で祈りました。  「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」  ファリサイ人は、ほかの人たちの罪を並べ立てて裁くだけではなく、自分がそのようでないことを感謝しますと祈りました。他の人を非難し、裁くことによって、自分を正当化し、他の人との比較によって自分を評価します。神の恵みに感謝しているのではない。他の人の罪を数え上げることによって、自分だけが特別の人間であることを感謝しているファリサイ人は、神の前に自分自身を誇っているに過ぎません。 神を讃えるのではなく自分自身を讃えている。神をないがしろにする祈りでした。それだけではなく、ファリサイ人は、こんなこともしています、あんなことをしていますと言って、いかに自分が律法を守り善いことをしているかということを、自分の行為を並べたて、いかにも自分が正しいということを、神の前に申立てました。 3 徴税人の祈り  同じ時に、神殿に一人の徴税人が来て、神にお祈りをささげました。  当時の徴税人というのは、ローマ皇帝やユダヤの王のために働く税金取立請負人でありました。ユダヤ人でありながら同胞ユダヤ人からは、ローマ皇帝やユダヤ王の手先として、税金を取立て、人々を苦しめ、利益をむさぼる罪人であるとされていました。その職業のゆえに罪人であるというレッテルを貼られ、売春婦、異邦人などと同じように差別されている人たちでした。  彼もまた神殿に来て祈りました。しかし、その姿は、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈っていました。」わたしは神の前にでる資格もありませんと、祭壇から遠く離れた所に立って、下を向いてうつむいたまま、自分の胸を打ちたたきながら祈りました。罪に対する深い後悔と悲しみを表し、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りました。「わたしには、ほめられるようなところはありませんし、よいところもありません。ただ、神さまの憐れみを乞うことしかできません。あなたのゆるしを願うことしかできません。」と祈りました。自分のことを「罪人のわたし」と言い表します。 4 神に義とされたのは徴税人であった  「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。」とイエスは言われました。  聖書において、罪とか義とかいう言葉は、神と私たちの関係を表す言葉です。またその言葉は裁判用語としても使われます。  「罪」という言葉の反対の言葉が「義」(ディカイオスネー)という言葉です。裁判で罪が確定する、罪人とされるということに対して、無罪が言い渡される、それは義とされることであり無罪放免となります。  「義とされる」とは、神と人との正しい関係のことを言います。神のみ心にかなっている者ということであり、神の支配の中に受け入れられることを意味します。ファリサイ人も徴税人も同じように、それぞれ神殿から家に帰って行きました。同じように日常生活に戻ったのですが、しかし、神によって正しい者、神の支配に受け入れられる者、ほんとうの救いが与えられたのは、「この人であって、あのファリサイ派の人ではなかった。」と言われます。  徴税人は、この祈りによって「義」とされました。神によって新しくされ、人生の再出発が約束されています。しかし、ファリサイ人は神の前にさらに罪を重ねただけであり、そこから何も始まりませんでした。ただ元の生活に逆戻りしただけでした。 5 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。   主イエスは、このたとえの最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と教えられました。  わたしたちは、今日、このたとえを、イエスさまの言葉をどのように聞くのでしょうか。このイエスの逆説的な教えをを聞いても、なんの驚きも感じない、つまずきさえも感じなくなっていない、当然の結論のように受け取っているなら、始めから納得してしまっていないでしょうか。  そして、自分自身を徴税人の立場に置いて、「ファリサイ人のようでないことを感謝します」と心の中でつぶやいているのであれば、主イエスが非難されたファリサイ人と同じ誤りを犯していることになってしまいます。  この「たとえ」は、単にファリサイ派の人の高慢を退け、徴税人の謙虚さに見ならいなさいというような教訓ではありません。もしそうだとすると、神に受け入れられる条件は人間の側にあるということになります。  自分の正しさに満足して、神の憐れみを求めることを必要としなかったファリサイ人が、救いの条件にかなったのではなく、自分自身にまったく絶望して、ただ神の憐れみのみを求めた徴税人が、神の憐れみによって受け入れられたのです。  ファリサイ人は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と言って、律法を守っていることを誇り、だから私は神に義とされて当然なのだ、救われているのだと言い立てました。 6 信仰によって義とされる。  ここで、パウロの教えに耳を傾けたいと思います。ローマの信徒への手紙3:21以下にこのように記されています。 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」  パウロは言います。神に義とされるのは、律法をどれほど知っているかとか、律法をどれほど守っているかということには関係がありません。ここにはっきりと神の義が示されました。それは、旧約聖書の律法と預言者が証言していることなのです。  それは、イエス・キリストを信じることによって義とされるのです。イエス・キリストを信じる者、すべての人に神の義が与えられるのです。神と私たちの関係が義とされるのは、私たちが、イエス・キリストを信じるということによって得られるのです。そこには人種や聖別や年齢や経験や学歴や職業など、一切関係がありません。差別はありません。何十年クリスチャンをしている人も、昨日、今日、イエス・キリストを知って信じた人も、どれほど強くイエス・キリストを信じるかが問われるのであって、経験の長さには関係ありません。  どんな人も、人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。そのような人に、ただイエス・キリストよる贖い、すなわち十字架につけられ、ご自分の命を与えて下さったあの出来事によって、一方的に、神の恵みによって、義とされたのです。神は、その御子イエス・キリストを私たちに与え、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためなのです。  キリスト教の救いというのはここにあります。  神さまの前に立つ時、私たちに誇るような良い所は少しもありません。それにもかかわらず、どうしようもない私たちに、最も大切なもの、かけがえのないものを与えてくださいました。この恵みによって、私たちは、救いの条件に入れられたのです。そのゆえに私たちは感謝します。私たちは感謝せずにはいられません。心から神さまに賛美します。賛美せずにはいられないのです。  ほんとうに「へりくだる」とは、心の底からこのことを受け入れ、神の恵みに感謝することだと思います。  そして、今、心から喜びにあふれ、「感謝と賛美の祭り」をささげようとしています。 〔2007年10月28日 聖霊降臨語第22主日(C-25)〕