断想   どうしようもない人間の仕業です。

2007年10月30日
先週の日曜日、Aさんから携帯にメールをもらいました。  「‥‥‥。教会の庭で読書中です。質問していいですか。アウシュビッツなどの大量虐殺を神様は何故放置されたと思われますか。私は神様が人間の立ち直る力を信じ、またその力をお与えになっているのかと考えますが、虐殺がこの世で起こったのは何故なのかと。簡単でいいですので、お教えくださると幸いです。お返事はパソコンでも構いません。緑豊かな新座より」   正直、えーーーっ。そんなこと携帯のメールで聞くなよ!というのが、正直、最初の感想でした。Aさんのあだ名は「ちびマルコちゃん」。ちびマルコちゃんの顔を思い出しながら、彼女ならそうするよなあと、あらためてメールを読み返しました。  それから、気になりながら1週間が経ち、何か答えなければと、今、机に向かっています。  正直、問題が大き過ぎて、複雑すぎて、人類始まって以来、誰も答えられなくってうんうん唸っている問題を、それが解ればノーベル平和賞ものと思える問題です。実は、私も神様に聞いてみたい質問なのです。  ちびマルコちゃんの「問い」の向こうには、人類の歴史の中で、戦争で死んだ人、人に殺された人、少なくとも病気か何かの自然死した人以外のすべての人の亡霊が立ち上がって来て、「おれたちにも、わたしたちにも教えてくれーーーっ」と叫び出し、私はもがき苦しんで押しつぶされそうです。  いや、それだけではありません。戦争で人を殺した人も、戦争以外の何かの事情で人を殺した人も、おれたちにもその答えを教えてほしい追いかけられるような気がします。その中には、アウシュビッツで、ユダヤ人を殺せと命令した人も、指先をちょっと動かすだけでガス室行きを指示した人も、ガス室のガスのコックの栓をひねった人もいるに違いありません。  アウシュビッツのあの出来事について、私はどれだけのことを知っているでしょうか。  アウシュビッツの強制収容所で、約600万人のユダヤ人が殺されたと聞きました。その時、大阪市の人口と同じぐらいだと思ったことを覚えています。大阪中の人を、ある期間ある所に集めて殺してしまうなんて、想像しようとしても私の脳みそからはみ出してしまって現実感がありません。しかし、全人類が忘れてはならない現実であり、歴史的な事実なのです。  若い頃、みすず書房から出たフランクル著「夜と霧」(霜山徳爾訳)を読み、口絵の写真を見てショックを受けたことを覚えています。人間の皮で作られた電気シェード、うずたかく積み上げられたメガネや義手義足の山、ただ人を殺すだけではなく、皮を剥いだり、義足を集めたり、メガネを集めたりしている人たちの姿を想像すると、人間ってどこまで残虐になれるのか、ふつうの人間の神経をどこまで捨てることができるのかと、頭を抱えるばかりでした。  しかし、これは、アウシュビッツに限りません、人間が生活の営みが始めて以来、争い、喧嘩、憎しみ、殺人、戦争は、今も後を絶たず、今この瞬間にもどこかで誰かが殺されています。600万人が殺されたということは、私が、今、生きて、呼吸して、食べて、いろいろなことを感じて、語って、考えて、愛して、喜んで、悲しんで、悩んで、‥‥‥いる、のと同じ命が、何も悪いことをしていない人間の命が600万。みんなもっと生きたいと思っているのに、死んでいく、無くなっていくということなんです。  だからと言って、戦争反対だとか、平和でありますようにだとか、殺し合うのは止めましょうなどと、簡単に言いたくありません。そんなことで平和になるぐらいなら、戦争はとうの昔になくなっているでしょうし、人が人を殺すことも止められているに違いありません。。  初めは部族と部族が、自分たちの利益や安定を求めて争いをし、殺し合った。強い者は弱い者を支配し、強い者はますます強くなろうと、立ち向かう者を殺していった。支配欲や、野心や欲望が、自分の望むものを手に入れるために人を殺させます。民族と民族、国と国が、相手を屈服させ、相手を支配するために殺し合い、戦争を始めます。主義主張を押しつけたり保つために人を殺し、戦争をすることもあります。歴史をふり返ると、「神の名」において戦争を始め、自分たちが勝つように祈りながら戦争をしているのですから、ほんとうに救いようがありません。そこから考えると宗教は戦争を抑止することはできないものだと思います。  戦争の原因は、みんな、家族や周りの人たちが幸福になろうと思って、平和になろうと思って、正義を守ろうとして、そこから戦争が始まります。誰も不幸せになろうと思って戦争を始める人はいません。  人間って、ふつうの生活をしている時は、みんな善良で、やさしくって、平和に生きたいと願っています。誰だって人を殺すことはいいことだとは思っていません。自分たちの言い分や利益を守ろうとして、仕方なく始める。しかし、人が人を殺す、血にもなれ、憎しみが増すと、人が変わってしまいます  人間は、置かれた状況によって、驚くほど残虐になれるし、残酷になれる。みんな人間であるということの中に、そのような本質を持ち合わせています。このような私でも人間である限り、時と場合によっては、人を殺し、戦争を始める可能性を持っていると思います。  まあ、要するに、人間って、誰でも、どうしようもなく残酷に、残虐になりうる要素を持っているということです。ヒットラーもブッシュも織田信長も豊臣秀吉も東條英機も、そして、槍や剣を持って実際に人を刺した人も、大砲や鉄砲の引き金を引いた人も、私もあなたも、その要素を持ち合わせていることを忘れてはならないと思うのです。  この辺で、言おうとすることの本筋に帰らなくては。  「 アウシュビッツなどの大量虐殺を神様は何故放置されたと思われますか。私は神様が人間の立ち直る力を信じ、またその力をお与えになっているのかと考えますが、虐殺がこの世で起こったのは何故なのかと。」  神は、人間のどうしようもない姿をご存じだと思います。人間には、立ち直る力などないと思っておられると思います。神ではないのでわかりませんが。  ただ、私はこのように思い、信じているのです。間違っているかどうかわかりませんが‥‥‥。   私は、旧約聖書の創世記の最初にある「創造物語」を思い浮かべます。  アダムとエバの物語で、これは、はっきり言って神話であり物語であって、実際にあったことではありません。しかし、人間の本質とはこんなものですよということが、すごくうまく描かれています。  神話ですから「神」が主人公なのですが、神は、人間が創造されたときに、もっとも大切なものとして、「自由」をお与えになったということです。もちろんこのアダムとエバの物語には、自由などという抽象的な概念や言葉は出てきません。神は、アダムとエバを造り、エデンの園に置かれた時、「どの木から木の実を取って食べてもよろしいと言われました。しかし、園の中央にあるこの木からは取って食べてはいけませんと言って、後のことは、二人に任せてどこかへ行きました。    食べてもよい木の実と食べてはいけない木の実、手が届く所に、木の実を置いて、ひと言、神自身の意志を伝えて、任せられました。それは、2つ以上の選択肢を与えて、自分の意志でどちらでも選ぶことができるようにしたということです。ここに「自由」があると思います。ただ放任ではなく、ちゃんと食べてもよいものと食べてはいけないものを示して教えました。  神は、人が食べてはいけないものがあるのだったら、初めから置かなければいいと思うのです。しかし、そうはしませんでした。神は、選択肢のない「強制」ではなく、人が自分の意志で決めることができる「自由」をお与えになったのです。  神は、「ご自分のかたちに似せて人をお造りになった」ということと考えあわせると、神が持つ本質と同じ本質を人間にお与えになったのです。最もだいじなものとして神は人間に「自由」をお与えになったのです。  ところが、エバは、蛇の誘惑に負けて、食べてはならない方の木の実を取って食べ、アダムはエバの誘いにのって、同じように取ってはならない木の実を食べたのです。  アダムとエバは、神から与えられた最もだいじな自由を行使したのです。しかし、それは、神の意志に背くという方を選択したのです。  ここに人間の本質があると言われています。  私たち人間一人一人の精神的DNAの中に、このアダムとエバの本質が刷り込まれていて、生きるという日常の中で神から与えられた自由を行使し続けて生きています。多くの場合、頭ではわかっているのですが、多くの場合、そのことには反して、取って食べてはならない方の木の実を取って食べ続けているように思います。  神が、被造物を愛し、人間を愛してくださるなら、ほんとうに善いことだけを行うように造って下さればいいのです。神の意志に必ず従うよう真剣に望んでおられるなら、人は人を殺せないように、悪を行うことができないように造ってくれるか、一言、命令を下してくださればいいのです。私は少年の頃には真剣にそのように考えました。しかし、神はそのようになさらない。神は、人に自由を与え続けられます。  人間は、神から与えられた自由を行使し、神ではない人間が自由を行使すると、そのことのために人の自由を奪ったり、侵害したり、制限し、神がしなかった強制を人間同士がするようになったのです。原因が結果を生み、その結果がまた次の原因となって、不幸を繰り返す私たち社会の現状があります。  戦争やさまざまな殺戮は、人間が神に与えられた自由を、神の意志に逆らって行使している姿だと思います。  神は、アダムとエバに呼びかけます。「お前たちはどこにいるのか」と。隠れても隠れても、呼びかけ続けます。逆に私たちの方からすると、「お前たちはどこにいるのか」、「何をしているのか」、「それでいいのか」と、問われ続けています。私たちは神に応えていかなければならないのですが、応えることができません。  このように、どうしようもない人間は、神にきちんと応答することもできず、ただ、うろうろするばかりです。このような人間に、神はどのような手を打たれるのでしょうか。そこから、聖書の人類救済の物語がはじまります。    私は、このような説明をして、わかったような顔をして、収まっているつもりはありません。少なくとも、神は、このどうしようもない人間のために何とかしようと働きつづけておられます。  私は、このような神の何とかしようとして下さって思いを受け入れ、これによって生きようと思っておます。  答えられたかどうかわかりませんが、Aさんであるちびマルコちゃんに、このようにメールをしようと思っています。