復活するのにふさわしい者

2007年11月11日
ルカ福音書20:27〜38  人は死んだらどうなるのでしょう?  人は死んだら何処へいくのでしょうか?  牧師は、このような質問をよくされます。一般的に、宗教家はそういうことの専門家だと思われているのでしょうか。聖書の中に天国とか神の国という言葉がよく出てきますので、そういうことをよく知っていると考えられているのでしょうか。  質問された方が、安心するような答えをきちんと話せないと、それでも牧師かというような顔をされます。しかし、正直に言ってよくわかりません。  この世に、宗教というものは無数にありますし、宗教家は無数にいます。そして、どの宗教もいろいろな死生観を持っていますし、同じ宗教、教派の中でも一人一人言うことが違います。(たとえば天国、地獄、煉獄、極楽浄土、美しいお花畑、臨死体験、輪廻思想、霊魂不滅説、戦争の死生観、哲学的死生観、等々、いろいろな説明がなされます。)  また、時代によっても、そのような考え方も変わっていきます。結論的には、死んで見なければわからないということになります。しかし、死んだ人は、誰も何も語ってくれません。  ですから、死後の世界については、生きている人がいろいろ想像で話を作ったり、絵に描いてみたり、語ってみたりします。そして誰かがどこかで仕入れた話を信じて、そうかと思ったりします。  人間にとっては、自分が死ぬことは恐い、避けたいと思っていますし、死んだらどうなるのかということは、最も関心のあることですが、あんまりそのことは突き詰めて考えたくないという人もいます。結論的には、それぞれがどのような考えを持つのか、それぞれに任されていることになり、人間の永遠のテーマです。  さて、ある時、ユダヤ教の一派、サドカイ派の人々が何人かが、イエスさまの所に近寄って来て質問しました。  当時のユダヤ教では大きくファリサイ派という一派とサドカイ派という一派がありました。ファリサイ派は死者の復活を信じると言い、サドカイ派は死者の復活などないと主張している人たちでした。(使徒言行録23:8)  このサドカイ派の人たちが尋ねました。  「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、7人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、7人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。7人ともその女を妻にしたのです。」  モーセの律法、申命記5:5-6を見てみますと、たしかにこのように定められています。  「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」  その当時、一族がいつまでも存続することがが、何よりも重大な問題でした。結婚の目的は、何よりも子どもを産んで一族を繁栄させることにありました。モーセの掟は、そのことの重要性を言っています。「レヴィラート婚」と言って、当時のユダヤ社会ではこれが守られていました。  サドカイ派は、復活などないと言っています。モーセの掟に従って、子どもをもうけるために、長男の妻を、長男が死んだあと、次男、三男、四男と7人の兄弟が妻にした。その夫である兄弟が死に、それぞれの妻になったこの女性も死んだ時、もし、復活があるというのならば、この女性は、誰の妻になるのか。ややこしくなるではないかと、イエスさまを試そうとして質問しました。  するとイエスさまは言われました。  「この世では、男も女もめとったり嫁いだりするが、次の世すなわち死んでよみがえった者は、めとることも嫁ぐこともない。  復活した人たちは、肉体を持って生きていた人と同じではなく、もはや死ぬことはない。天使に等しい者である。復活にあずかる者として、神の子となったのだ。」  イエスさまは、復活はあると言われます。  サドカイ派は復活を否定し、ファリサイ派は復活はあると言っているのですが、両方とも彼らが考えている復活というのは、この世での日常生活や社会生活、すなわち、食べたり飲んだり、掟を守ったり、親戚関係や人間関係のしがらみなど今の生活が、別の世界でも継続するというイメージを持って議論をしています。  従って、サドカイ派は、復活後も結婚関係がそのまま続いていると、その関係がややこしくなるではないかと意義を唱えたのでした。  イエスさまは、死んで復活するということは、そういうものではないと、はっきりと否定されます。  死んでよみがえったものは、再び死ぬような肉体をもったものではなく、天使に等しいもの、神の子になるのだと言われました。  コリントの信徒の手紙�� 15:42-44に、パウロはそのことを次のように言っています。  「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」  蒔かれた種が、朽ちても、まったく違った形で成長する様子を復活の姿として説明しています。  イエスさまは、さらに言われました。  「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」  出エジプト記3章を思い出してください。  モーセが羊飼いをしていた時、モーセのしゅうとミディアンの祭司エトロの羊を連れてホレブの山に登った時、その山の奥で柴の間に燃え上がっている炎を見ました。不思議に思って見つめているのですが柴は燃え尽きません。モーセがさらに近づこうとすると、燃える柴の間から声が聞こえました。「モーセよ、モーセよ」 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を隠しました。  ここで、モーセは、神からエジプトの地に行って、イスラエルの民をエジプトの王の支配から助け出せ、その国から連れ出せと命じられました。その時に、神は、モーセに自分自身を自己紹介されました。  「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」  「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が遣わす」と。  アブラハムが生きたのは紀元前1750年頃と言われます。アブラハムはイスラエル民族の最初の族長と言われます。イサクはその子、ヤコブはさらにその子、この族長たちは、後のイスラエル民族が最も尊敬する先祖で、彼らを通して、神はこの民族の繁栄を約束されました。それ以後の子孫、イスラエルの民は、アブラハムが信じ、イサクが信じ、ヤコブが信じた神を信じるということが信仰を告白する内容そのものでした。  モーセは、紀元前1275年ごろに生きた預言者で、さらに神の律法を神から受けた人です  モーセからすると、アブラハム、イサク、ヤコブは500年も昔に生きていた人たちです。言いかえれば彼らが死んで500年も経っています。しかし、イスラエル民族の前で、モーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が命じられる」というと、イスラエルの民は、その神を恐れ、その神に従おうとしたではないかと、イエスさまは言われるのです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも死んだ、しかし、500年経っても、1000年経っても、人びとの中に生き、証ししているではないかと言われます。  そして、イエスさまは、最後に言われました。  「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」  神は死んだ者の神ではなく、生きている人の神です。すなわち、人を生かされる神です。  私たちは死んだらどうなるのか。何処へいくのか。難しい問題ですが、聖書が教えている所をきちんと知っていただきたいと思います。  今日、読んだ福音書の中から、イエスさまが教えておられることからまとめてみますと、  第1に、私たちが死ぬということは、私たちのこの世での生活が、そのままどこか別の世界に横滑りして、この世と同じ人間関係や社会生活が続くのではないということです。  第2に、私たちは、死んで復活する、よみがえるのだと言われます。しかしその時の姿は、今の肉体のままではなく、天使のような者、神の子とされ、または霊の体をもって復活するのだということです。  第3に、しかし、一つ気になる言葉があります。ルカ20:35に、 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は」という言葉です。すべての人がみんな同じように復活するのではなく、「復活するのにふさわしいとされた人」だと言われます。それでは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とは どんな人なのでしょうか。  イエス・キリストは、私たちのために十字架につけられて死なれました。そして、わたしたちも、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになります。キリストと共に耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになります。もし、私たちがキリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれます。(テモテ��2:11ー12) 復活するのにふさわしい者とされる条件は、生きている者の神が、私たちが私たちのために遣わしてくださったイエス・キリストと共にある、私たちと共にいてくださるという信頼と、そのことを心から信じることにあります。 〔2007年11月11日 聖霊降臨後第24主日(C-27)説教〕