ろばに乗った王
2007年11月24日
ルカ19:29〜38
教会には、独特の暦があります。「教会暦」と言いますが、教会暦では、毎週の日曜日、主日にそれぞれ名前が付けられています。今日の主日は「聖霊降臨後最終日・キリストによる回復(降臨節前主日)」と呼ばれます。一昨年までは、この日を「降臨節前主日」とだけ呼んでいたのですが、昨年の5月に開催された日本聖公会総会で、祈祷書の改正が行われ、このような長い名前になりました。
もとは、降臨節を迎える前日という意味だったのですが、世界各国の教会で、その意味が変わる傾向があり、「王であるキリスト」「キリストの支配」を強調する主日として見られるようになり、日本聖公会では、この日の特祷から「神のみ心は、み子にあってあらゆるものを回復されることにある」と祈られることから「キリストによる回復」を強調する日とされました。先ほどお祈りしました今日の特祷をもう一度ごらん頂きたいと思います。
さて、本日の福音書、ルカ19:29-38から学びたいと思います。
イエスさまは、ご自分が苦しみを受け死ぬ出あろう、そして三日目によみがえるであろうということを、3度も弟子たちに予告されてから後、顔を真っ直ぐあげ、弟子たちと共にエルサレムに向かって行かれました。
エリコという町を通り、さらにオリブ山のふもと、エルサレムの少し手前の町ベタニヤとベトファゲという村に近づいて時、イエスさまは、2人の弟子たちに、不思議なことをお命じになりました。
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが道端につないであるのが見えるだろう。その綱をほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
2人の弟子は、言われたように出かけて行きますと、イエスさまが言われたように子ろばがつないであるのを見つけたました。そこでそのろばをつないでいる綱をほどいますと、そのろばの持ち主が、「なぜ、その子ろばの綱をほどくのか」と言いました。
二人の弟子たちは、主イエスの言われたとおり「主がお入り用なのです」と言いました。そして、弟子たちは子ろばを連れて主イエスのところに戻って来ました。
そして、弟子たちは、そのろばの背中に自分たちの服をかけると、主イエスはそれにお乗りになりました。
さらにエルサレムに近づくと、自分が来ていた服をぬいで道に敷きました。イエスさまがオリーブ山の下り坂にさしかかった時、弟子たちやイエスさまについて来た人びとは、みんなで声高らかに神を賛美して始めました。
それは、エリコで盲人を癒されたこと、また同じエリコで徴税人ザアカイが回心したことなど、イエスさまがそれまで行われた数々の奇蹟を目の当たりにしたからでした。この方こそ、主のみ名によって来る方だと、喜びの声を上げました。
そして、前を行く者も後に従う者も声を揃えて叫びました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
これは、詩編118編24〜27にある賛美と祝福の歌声です。
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
どうか主よ、わたしたちに救いを。
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。」
このようにして、イエスさまは、エルサレムの街に入られたという出来事ですが、この場面については、マタイもマルコも同じようにそれぞれの福音書に記しています。
マタイとマルコは、マルコによる福音書をもとにして書いたと言われていますが、この3つの福音書は同じ出来事について書いていながらその個所を読み比べてみますと、少しずつ違っているところがあることに気づきます。
マルコとマタイでは、大勢の群衆が道に自分たちの服を敷き、野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷いて、「ホサナ、ホサナ」と叫びながら主イエスを迎えたとあります。
これに対して、ルカは、弟子たちが道に服を敷き、弟子たちの群れが声高らかに神を賛美したと記されています。弟子たちがあまり騒ぐので、これを見ていた群衆の中からファリサイ派のある人たちが、主イエスに向かって「先生、お弟子たちを叱ってください」と言ったほどだったことがわかります。
イエスさまは、ろばに乗って、エルサレムに入られました。なぜわざわざろばに乗られたのでしょうか。この光景は、何を意味しているのでしょうか。
ゼカリア書にこのような言葉があります。(9:9-10)
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」
この預言が成就されようとしている、今、実現しているということを示し、イエスさまご自身がどのような者であるかを弟子たちに教えようとしておられます。
預言者ゼカリアが、預言する救い主、王の姿は、立派な馬にまたがり、多くの兵士たちを引き連れて、胸を張って、凱旋将軍のような姿で迎えられるような方ではない。
小さなろばに乗って、足が地に着きそうな格好の悪い姿で、とぼとぼと歩いてくるそういう姿で来るだろうと預言しました。
その方は、神に従い、神から勝利を与えられた者だ。その方は、決して威張ったり高ぶったりすることはなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗ってやってくる。
その方が現れた時、神はエフライムから戦車を絶ち、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓矢は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。ほんとうの平和は、兵隊や、軍馬、戦車、弓矢によってもたらされるのではない。この方によって、そのようなものは力を失い、世界にほんとうの平和がもたらされるというのです。
さらに、ルカが言いたいのは、エルサレムの市民や群衆は、何もわかっていない。その一週間後には、扇動された群衆は、イエスさまに対して「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んだではないかと言いたいのです。
これに対して、弟子たちは、少しはわかっていました。「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇蹟のことで喜び、声高らかに神を賛美した」とあります。詩編を歌い、賛美と喜びに満ちて、イエスさまを囲みながら、エルサレムの城門を入って行きました。
しかし、弟子たちも、「主の名によって来られる方、王に」と叫び、「見よ、あなたの王が来る。」という預言者ゼカリアの預言を知っていたとしても、その王が、ほんとうに王として神の栄光を表し、王が王となられたのは、人びとから裏切られ、侮辱を受け、鞭打たれ、十字架に釘つけにされた、その瞬間であったことを、この時はまだ知りませんでした。
今日は、「王としてのキリスト」の「ほんとうの支配であるキリスト」について、思いを馳せながら、私たち一人一人がキリストとの関係を深くふり返る時です。私たちは、主イエスのほんとうの姿をほんとうに知っているでしょうか。
今日の特祷をもう一度、祈りましょう。
聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は王の王、主の主であるみ子によって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
〔2007年11月25日 聖霊降臨後最終主日(C-29)・キリストによる回復(降臨節前主日) 下鴨基督教会〕