信仰の遺産を継ぐ

2007年12月01日
イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)  明日、12月2日は、チャンイング・ムーア・ウイリアムズ主教が亡くなられて97年の記念日を迎えます。  老年のウイリアムズ主教は、自分の意志や身体の統制力さえ失いかけており、自分の持つすべての力を日本のために使い尽くしていました。パートリッジ主教は、もはやアメリカまで帰る力さえないと判断し、ウイリアムズ主教に帰国を思い止まらせようとしましたが、頑固さだけは最後まで衰えず、送別礼拝や別れの挨拶などいっさいなしで、帰国の日時さえ秘密のうちに帰ると言ってききませんでした。  パートリッジ主教は、長年親しくしていた信徒の宣教師ガーディナー氏に付き添ってもらうよう依頼しました。(ガーディナー氏は、この聖堂を設計した建築家であり、長年、立教学校の校長を勤めた教育者でもありました。)  1908年4月28日、午前8時23分、ウイリアムズ主教は、パートリッジ主教と使用人秋山知次郎に伴われて京都駅を出発し、途中静岡で一泊して、翌朝の汽車で横浜に11時ごろ着きました。  出航の日時は秘密にされていたのですが、それでもウイリアムズ主教を慕い、長年親しく教えられ感化を受けた人たちが主教の帰国の日時を漏れ聞き、何人かの人びとが、横浜埠頭に待ち受けていました。  11時半ごろ、ガーディナー氏と英国教会のオースチン司祭の肩に両手をかけ、ウイリアムズ主教はほとんど吊り下がらんばかりに石段を降りて桟橋にたどり着きました。かつての颯爽とし健脚だったウイリアムス主教が、このように衰えてしまったことに、久しぶりにウイリアムズ主教を見た人々は涙が止まらなかったといいます。  助けられてボートに乗り移り、ウイリアムズ主教は初めて桟橋上の人びとと向き合いました。帽子を取り、頭を上げ、視力が衰えた眼で、ウイリアムズ主教は、見送りの人びとをじっと眺めていました。見送りの人びとも帽子を取り、声を上げて別れの言葉を発すると、ウイリアムズ主教はしきりに頷いていました。何人かの人びとは、別のボートで本船まで漕ぎつけたといいます。  午後3時、サイベリア号は、汽笛を鳴らし、静に東を指して動き始めました。ガーディナー氏が夫人に宛てた手紙によりますと、この時、ウイリアムズ主教は、船の欄干にもたれ、手を上に広げ、見送りの人びとに、いや、日本の国のために、祈りをささげ、祝福を送っていました。ガーディナー氏は、その姿に涙がとまらず、後になってもこのことを思い出して涙ぐんだと伝えています。  ガーディナー氏は、ウイリアムズ主教を椅子まで連れて行こうとしましたが、その時、ウイリアムズ主教の眼は涙で満ちていました。  ウイリアムズ主教とガーディナー氏を乗せた船は、2週間かかって、5月14日に、サンフランシスコに到着し、さらに鉄道で、途中宿泊しながら旅を続け、5月25日、故郷のヴァージニア州、リッチモンドに無事到着しました。  リッチモンドでは、甥御さんの家で世話になっていましたが、 1909年9月、病状が重くなり、甥のハリスン氏は、市内のジョンストン・ウイリス療養院に入院させました。意識の定まらない状態でしゃべる言葉や祈りが日本語であったため、看護するまわりの人びとが困ったといいます。  そして、1910年(明治43年)12月2日、午前3時、静に神様のもとに召されました。81歳でした。  青年ウイリアムズは、ヴァージニア神学校在学中に、中国伝道を志願し、6月に卒業してすぐ、11月末に、中国上海に向って出発しています。26歳の時でした。1859年、米国聖公会内外伝道協会が日本ミッションの開始を決議し、ウイリアムズ司祭は、リギンス司祭と前後して、日本の長崎に上陸しました。ちょうど30歳の時でした。  それから約50年、日本の宣教のため、とくに日本という国に聖公会という教会の土台をすえ、骨組みを立ち上げようとする神様の手となり足となって、働き通した生涯でした。  日本伝道区主教として23年、伝道区主教を辞任して後、27年ぶりに帰国。1年休養して、1895年(明治28年)、65歳の時、再び来日して京都に住み、1908年、最後の帰国まで13年間、京都地方部で伝道と牧会に当たられました。  葬送式の後、ウイリアムズ主教の遺体は、リッチモンド市内のハリウッド共同墓地に埋葬されました。  2年後に、日本人の聖公会司祭が墓地を訪ねました。ところが墓地事務所に尋ねても、ウイリアムス主教のお墓の所在がわかりません。ここに確かにハリスン家の墓があるはずだと言うと、そこの事務職員はやっと気づき案内してくれました。ハリスン家に身を寄せていた老人はここに埋葬されたと言われる所には土が盛り上がっているだけでした。なんとも寂しい想いをして帰った墓参者は、日本に帰ってこのことを訴え、日本聖公会信徒有志がリッチモンドの墓地に墓碑を建てようと募金を呼びかけ、御影石で墓碑を製作し、アメリカに送りました。  1913年(大正2年)11月7日、日本人教役者、信徒の有志をはじめ、マキム主教、タッカー主教、そしてヴァージニア教区主教のギブソン師臨席のもとに、ウイリアムズ主教を追慕する記念碑をささげる式が行われました。そこには次のように記されました。  「創業の難を排し、堅忍能く日本聖公会の基を奠む。嗚呼我が老監督ウイリアムス美哉。日本在住五十年、道を伝えて己を伝えず、一朝飄然として去り、老骨を故山に埋む。温容彷髴追憶日に新たなるものあり、茲に碑を老師就眠の地に建て、日夕愛慕の意を表す。」  この記念碑のレプリカが、若王子墓地の一画に建てられていることは皆さんもよくご存じのことと思います。  さて、「ウイリアムス神学館」は、このウイリアムズ主教の名で呼ばれる神学校です。また、「道を伝えて己を伝えず」という言葉が、神学館のパンフレットなどに印刷されていますから、多分これこそこの神学校の建学の精神だと思います。  この言葉は、ウイリアムズ主教が語られた言葉、教えられた言葉ではなく、ウイリアムズ主教によって感化を受け、教えられ、愛し、慕った人びとが、この方は、このような人であったと言い、誰もがこの言葉こそ、ウイリアムズ主教の生涯を見事に表現している言葉だと認めるものです。  私は、ここで、ウイリアムズ主教のことを持ち上げて、あらためて聖人のようにあがめようというつもりはありません。  神様の手となり、足となり、器として、道具として、召され、押し出され、そして、その生涯をささげ尽くされた先輩の生きざま、数えられないほどの喜び、悲しみ、そして、忍耐に忍耐を重ねられたウイリアムズ主教の人生のドラマにもう一度想いを馳せ、これに続く者として、私たちは自分自身を振りかえってみたいのです。  ウイリアムズ主教の50年間の聖職生活は、ほんとうに厳しい難しい問題の山積だったと思います。  言葉の問題、まだ切支丹禁令の影響が残っている時代です。異文化への宣教、日本人独特の宗教観や風土、習慣の違いがあります。  住む所や出かける所まで制限され、監視されながらの伝道活動でした。 (本国、米国聖公会の宣教師としてつねに報告の手紙を書き、許可をもらい、宣教師の派遣と経済的な支援を求めなければなりませんでした。派遣されて来る宣教師は健康を損ない、意見の食い違いや個性のぶつかり合い、わがままを処理しなければなりませんでした。 また、イギリスから派遣されてきた宣教師、CMSやSPG、カナダ聖公会との関係に、助けられるところもありましたが頭を悩ます時期がありました。共通の祈祷書を制定すること、法憲法規の原案を策定し、日本聖公会を組織し、教会形成をはかること。さらに、キリスト教の他教派の宣教師たちとの協力や考え方の違いからくるいろいろな問題がありました。)  一つだけ出来事をご紹介します。  1874年、日本専任の主教となって大阪から東京に移り、築地の入船町5丁目1番地に、長屋3軒、住居用6部屋、礼拝堂、大教室、50名用の男子寄宿舎の規模を購入し、米国ミッションの本部もここに移し、ここに「立教学校」を設立」しました。  ところが翌年1875年11月29日夜、日本橋数寄屋町から出火し東京市内約1万戸が類焼する大火事があり、雑居地、築地居留地のある開市場を襲い、入船町のミッション本部は瞬く間に焼失してしいました。開校したばかりの立教学校も閉鎖しなければなりませんでした。火事と喧嘩は江戸の華などと言っていられません。失望と落胆に打ちひしがれ、しかし、次の年には、また再建にとりかかっておられます。(それ以後、煉瓦造りの建物を建てることを主張しておられます。)  このような例を挙げますときりがありません。自ら質素な生活に身を置きながら、教会を建て、学校を建て、病院を建て、そして、求道者を導き、洗礼を授け、堅信式をし、宣教師を配置し、伝道者を立てていきました。その時、その時のウイリアムズ主教の胸中は、どのようなものであったのか、その50年間の足跡を追うと共にあらためて大きな感動を感じます。  今年3月のウイリアムス神学館の卒業式の席で手渡された卒業証書の最後の番号は、第112号でした。神学館創立以来か、またはある時からの卒業生の人数を表しているものだと思うのですが、それ以外にも学業修了者、聴講生など、ウイリアムス神学館は、何百人もの教役者を生みだし、そして、それぞれ遣わされ、神様の手となり足となり、口となり、神様の器となって、働いています。  そして、多くの先輩が、鉾を下ろし、盾を置いて、神様のみもとに休んでおられます。そして、今、私たちは、世を去ったこれらの先輩教役者、先輩卒業生、すべての関係者を覚えて祈ります。  ウイリアムス主教を日本に駆り立て、日本の地で50年間、その生涯ささげさせた動機、何がそのようにさせたのでしょうか。  あとに続くウイリアムス神学館で学んだ先輩諸先生たちが、やはり忍耐をもって何かに従おうとした、その志の元はなにでしょうか。  それは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と言われた主イエスの至上命令に従おうとしたことでは、同じ動機、志しであったと思います。  それほど大上段に振りかぶった姿勢で、毎日々々の務めを行ったのではないかも知れません。しかし、つねにこの言葉に裏付けられ、押し出され、使命を果たそうとされました。  そして、また、私たちのところにその思いが受け継がれているのだということを、しみじみ感じます。  先輩卒業生が、先輩教役者が、そして、これらの方々を支えたすべての関係者が残した「信仰の遺産」をしっかりと受け取り、受け継いでいきたいと思います。  「世を去った兄弟姉妹、ことにウイリアムス神学館にかかわるすべての人びとの魂が、主の憐れみによって安らかに憩うことができますように。アーメン」  〔2007年12月1日 ウイリアムス神学館関係逝去者記念聖餐式 於・京都教区主教座聖堂〕