目を覚ましていなさい

2007年12月02日
マタイ24:37-44 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:42〜44)  教会の暦では、今日の主日から「降臨節(アドベント)」というシーズンに入ります。降臨節第1、第2、第3、第4と、4回の主日を過ごして、そして「降誕日(クリスマス)」を迎えます。  降臨節というこのシーズンは、イエス・キリストの誕生、御降誕の日を迎えるために、私たちが心の準備をする期間です。そのために、降臨節の毎主日には、それぞれテーマがあるのですが、今日の主日のテーマは、「目をさましていなさい」ということにあります。  言われなくても、私たちは目を覚ましているのですが、この肉眼の目ではなく、心の目を覚ましていなさいということです。  私たちは、五感で、外からの情報を察知します。見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わうという5つの感覚です。確かだと思っている私たちのこの五感も、これほど不確かなものはありません。見ているけれども見えていない、聞いているけれども聞いていないということがよくあります。それは、「心がここにあらず」という状態で、意識がそこにないとか神経が集中していないという時に「うわの空」になります。  もう12月ですので、聖書の中からクリスマスのお話をします。  よくご存じのことですが、イエス・キリストの誕生の物語は、4つの福音書の中のマタイとルカの福音書にしか記されていません。  マルコとヨハネの福音書には、まったく触れられていません。  そして、マタイとルカの福音書には、主イエスの誕生の物語が記されているのですが、そのマタイとルカの間でも、内容にすこし違いがあります。  マタイによる福音書では、東の方から来た占星術の学者たちが、星に導かれて、はるばるユダヤのベツレヘムまでイエスさまを拝みに来たという話が記されています。  バビロニアではないかと言われますが遠いところから旅をして、ユダヤのエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、ユダヤの王ヘロデに尋ねました。ヘロデにはわかりません。それどころかヘロデ王はその話を聞いて不安に襲われました。東方の学者たちはさらに星に導かれて、ベツレヘムに着き、馬小屋に寝かされていたイエスさまにお会いし、持ってきた黄金、乳香、没薬をささげてひれ伏して拝み、自分の国へ帰っていったというお話です。(マタイ2:1-12)  ところが、ルカによる福音書には、この東の方から来た占星術の学者たちの話は載っていなくて、かわりに、この地方で野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちの物語が記されています。  野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れて、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。天使たちが去った後、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と言って急いで行って、マリヤとヨセフに会い、馬小屋の飼い葉桶に寝かされているイエスさまを探しあてたとあります。(ルカ2:8-20)  この当時、エルサレムには立派な神殿があり、神殿には祭司長や祭司たちが大勢いましたし、またファリサイ派、律法学者という、ユダヤ教の教師たちが大勢いました。ユダヤの王、ヘロデ王もいましたし、長老たちもいました。我こそは、ユダヤ教の専門家、宗教家、また、教育を受けた学者、社会的な地位があると威張っている人たちはたくさんいました。  しかし、彼らの所には、救い主がお生まれになったというしるしやニュースは何一つ知らされませんでした。遠い東の方の国の占星術の学者と野宿している羊飼いたちにだけ知らされたというのです。  なぜでしょうか?  もう少し注意して、このキリスト誕生の物語を読んでみますと、遠い東方から来た占星術の学者たちというのは、ユダヤ人でないことがわかります。ユダヤ人の方から言えば「異邦人」です。当時、異邦人は救われることのない罪人とされていました。  また、野宿して羊の番をしている羊飼いたちというのは、ユダヤ人であったかもしれませんが、社会的には、いちばん身分の低い労働者で、律法を知らない人たち、淨、不浄の区別がわからない人たちとして蔑まれていた人たちでした。  救い主がお生まれになったという重大ニュースが、このような異邦人、異国人と、身分の低い蔑まれている労働者の所にだけ知らされたのです。なぜでしょうか。  東の方から来た学者たちと野宿して羊の番をしている羊飼いには共通点があります。  それは、両方とも世の中の人たちがみんな眠っている時に、夜眠らないで目を見はっていた、目を凝らして、注意を集中している人たちだったということです。  占星術の学者たちは、夜中に星空を見上げ、目を凝らして、星の動きを観察しています。ちょっとした天体の動きも見落とさないように注意し、その動きから占いをしたり、予言をしたりするのが仕事でした。この時、特別の星を見つけて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とヘロデ王に言いました。  野宿して羊の群れの番をしている羊飼いたちは、野原の真ん中で、夜中にひそかに近づいて襲ってくる野獣や盗人から羊を守るために、暗闇の中に目を凝らしています。羊の所有者から羊の群れを預かっている貧しい労働者ですから、羊が襲われたり盗られたりすると大変なことになります。寝ずの番をしている一晩中神経を集中させている人たちでした。  毎年、クリスマスに読まれる聖書の個所ですが、子どもでもわかる心温まるお話ですが、そこには大切なメッセージが示されています。  神の子がお生まれになったという特別の情報を先ず第一に手に入れることができたのは、どんな人だったのでしょうか。  言いかえれば、イエスさまと出会うことができる人は、どのような人ですか。イエスさまを心から神の子として受け容れ、礼拝できる人はどのような人ですか、ということを教えています。  それは、職業的宗教家でも、学者でも、この世の地位や身分の高い人にもたらされるないと言っています。  神さまの側から言いますと、知識や地位や名誉やお金を持っている人は、そのことに心が奪われているために、見えなくなっています。神さまに心を集中することはできません。神の言葉を真っ直ぐに心で聞くことができません。  反対に、神さまは、この恵みを、貧しい人、弱い立場にある人、虐げられている人、そしてわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。(エフェソ1:8)  「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」  「目を覚ましていなさい」というのは、一晩中寝ないでずっと起きていなさいということではありません。私たちは睡眠を取らなければ生きていけませんし、反対に神経を集中させることもできなくなります。「目を覚ましていなさい」というのは、私たちの心の目を開いて、イエスさまの方に向けなさい、集中しなさいという意味です。  見えていることと見ていることとは違います。  漠然とイエスさまが見えているような気がするというのと、自分で意識して、イエスさまを見ているということとは違います。「見ている」ということは、実は、心の目で見ていることなのです。  世の中は、テレビの画面も商店街も、クリスマスのムードでいっぱいです。漠然とそのムードにはまっているだけでは、クリスマスを見えているけれども、主イエス・キリストの誕生を見ていることにはなりません。  間もなくクリスマスを迎えます。この降臨節の間、心の目をはっきりと見開いて、イエスさまに焦点を合わせ、私たち一人一人の心の中に、主をお迎えしましょう。よい準備の時を過ごしましょう。 〔2007年12月2日 降臨節第1主日(A年)説教 桑名エピファニー教会〕