洗礼者ヨハネの役割
2007年12月09日
マタイ3:1〜12
イエスさまがお生まれになる以前、ユダヤの国で、何百年もの間、活躍していた預言者たちは、「救い主」がお生まれになる、「メシヤ」が現れると言って預言していましたから、後の時代の人びとは、その方が現れるのを、真剣に待ち望んでいました。
他国から支配され、圧迫され、生活が苦しい。その苦しみが強いほど、自分たちを救い出してくれる方、苦しみを取り除いてくれる人が現れるのを、懸命に待ち望みました。
その救い主は、いつ、どこで、どのような姿で来るのかわかりません。そうなると、偽キリストや偽預言者が多く現れ、ユダヤの人びとは、その噂を聞いて、そのたびに右往左往していました。
イエスさまは、幼年期、少年期、青年期を、ヨセフ、マリアと、そして兄弟たちと共に、ガリラヤ地方のナザレという村で、過ごしておられたと言われています。
そして、人びとの前に突然、姿を現し、宣教活動を始められました。それは30歳の頃でした(ルカ3:23)。
イエスさまが宣教を始められる、少し前に、もう一人の人が現れました。その人の名は「ヨハネ」と言います。当時、ヨハネという名の人は大勢いましたから、その人のことは、「洗礼者ヨハネ」「バプテスマのヨハネ」と呼ばれています。
今日は、このヨハネのことについて学びたいと思います。このヨハネとは、どんな人であったかということと、イエスさまとの関係、イエスさまに対してどのような役割を果たしたかということについて考えたいと思います。
旧約聖書の列王記下(1:7,8)に、サマリヤの王アハズヤが屋上の部屋の欄干から落ちて動けなくなりました。王は、家来たちに「エクロンの神バアル・ゼブブの所へ行って、この病気は治るかどうか聞いてこい」と命じました。この家来たちは、途中、一人の人に出会い、その人は「イスラエルには神がいないとでも言うのか」と言いました。家来たちはそれを聞いて引き返し、アハズヤ王にそのように告げると、王は、「お前たちに会いにやって来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」とこの家来たちに尋ねました。すると家来は「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えました。すると、アハズヤ王は、「それはティシュベ人エリヤだ」と言いました。その人は、預言者エリヤだったのです。預言者エリヤは、毛衣を着て、腰に革の帯を締めていました。
さて、突然、ユダヤの荒れ野に現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えていたヨハネは、「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあります。 この姿を見た見た当時の人びとには、かつての有名な預言者エリアを想像させるものでした。いわば、仙人のような姿で、大きな声で、人びとに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えていました。
その噂を聞いた人びとは、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、続々とヨハネのもとにやって来て、罪を告白し、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けました。
このようにヨルダン川で洗礼を授けていましたから「洗礼者ヨハネ」、「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるようになりました。
洗礼者ヨハネは、人びとに厳しく悔い改めを迫り、罪の懺悔を求めましたが、とくに、当時のユダヤ教の指導者であるファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て言いました。 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。
ヨハネのメッセージは、単に、反省しなさい、思い直しなさいというような、誰でも言うような悔い改めの勧めではありませんでした。彼のメッセージは、「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と叫び、神の裁きの時が近づいている、その時がもうすぐそこに来ているという差し迫った裁きの時を告げるものでした。
当時のユダヤ教の指導者たちは、神殿に犠牲をささげて、型どおりの儀式、お祭り、行事をこなしていれば、神の怒りから逃れられると思っていました。形式的に律法を守っていれば、神によって正しいとされ、救われると思っていました。まさに枝や葉ばかり繁らせて実を稔らせない木のような、中身のない偽善的な宗教でよしとしていました。自分たちはアブラハムの子孫だから救いは約束されていると、選民意識、エリート意識だけで、傲慢になり、他の人びとを見下げていました。
実のならない木は切り倒されて捨てられるだけだ、斧は既に木の根本に置かれている。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、ヨハネは迫りました。
ヨハネが現れて、荒野で盛んに活動を始めた後、しばらくしてから、イエスさまは、人びとの前に姿を現わされました。
イエスさまも、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、宣教を始めました。(マタイ4:17)
また、ファリサイ派や律法学者、サドカイ派に向かっても、厳しく彼らの偽善者ぶりを非難し、激しい口調で攻撃しました。さらに、裁きの時が近いことも、悔い改めも、ヨハネと同じように迫っておられます。
では、洗礼者ヨハネと、イエスさまは、同じ立場、同じ考え、教えだったのでしょうか。当時、ヨハネの所にも大勢の人々が集まり、イエスさまの所にも多くの群衆が集まりました。多分、人びとは、どちらがほんとうの救い主だろう、自分たちを幸せにしてくれるのだろうと、右往左往したに違いありません。
ところが、ヨハネとイエスさまとでは、違うところがいくつかあります。
まず、第一に、預言者イザヤの預言が、このヨハネによって実現しているのだと述べられています。マタイによりますと、
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れた。このヨハネは、預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
これは、イザヤ書40章3節からの引用です。
「呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」
ヨハネを「主の道を整え、その道を真っ直ぐにする者」、すなわち、神が遣わされる方のために「道備え」をする人、その方が歩かれる道を「整える」者として位置づけられ、紹介されています。
また、さらに旧約聖書の最後の書、マラキ書では、預言者マラキは次のように預言しています。(マラキ3章1節、23節)
「見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。
あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。 あなたたちが喜びとしている契約の使者。」
「見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」
預言者マラキによりますと、恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤを遣わすと預言されています。洗礼者ヨハネは、らくだの毛衣を着、川の帯を締めて、かつての預言者エリヤの再現を思わせる姿でした。
ヨハネは、イエスさまが来られる前に、道備えする者、その道を平らにする者であり、そして、その方が来られる前に遣わされるというエリヤの役割を果たしていました。
第二に、ヨハネ自身が、自分の後から来られる方を指して、はっきりと自分とイエスさまの違いを示しています。(マタイ3:11)
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と。
その方の前では、奴隷がひざまずいてご主人の履き物を脱がせるような、私にはその役割にさえ値しない、値打ちもないと、自分自身のことを紹介しています。
洗礼者ヨハネは、人びとに悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。ヨハネはあくまでも罪の告白と悔い改めを迫り、水で洗礼を授けていました。しかし、主イエスは、聖霊と火で洗礼を授けます。 主イエスも、ヨハネと同じように、人びとに罪の悔い改めを迫りました。しかし、ヨハネと違うところは、「審き」と「赦し」をお与えになることができる方だということです。ヨハネには人の罪を赦すことはできません。人の罪を赦すことができるのは神だけです。主イエスは、神の子として罪を赦す権威を持ってこの世に遣わされました。
さらに、主イエスは、十字架につけられて死に、そして復活されました。この十字架にによって、人びとが受けなければならない審きを一身に引き受け、すべての人びとの罪を負って、十字架の苦しみを受け、そして死なれました。そして、死んで、よみがえり、死を滅ぼされました。これによって、悔い改めて、イエス・キリストを神の子と信じた人びとに、神の赦しを与えられました。
洗礼者ヨハネは、最後の預言者と言われます。主イエスの道備えをする人、主イエスを指さす人、主イエスを人びとに紹介する人でありました。大相撲の横綱の前を行く露払いのように、イエス・キリストの前を行きます。
今日の主日は、クリスマスを迎える準備をする「降臨節」の第2の主日です。私たちの前に立って、洗礼者ヨハネは、呼ばわります。「悔い改めよ。天国は近づいた」と。
悔い改めるということは、私自身が、あなた自身が、神さまと自分の関係が、今、どのようになっているか、毎日の生活のなかで、どのような状態かをよくよく調べ、吟味することです。
神を神としない、神に背く、神以外のものを神とする、神を無視する、そのような姿になっていないかどうか、ふり返ってみてください。
洗礼者ヨハネが指さしたあの方を、主よ、どうぞお出でくださいと言って、心からお迎えしたいと思います。よき準備をして主のご降誕の日を迎えましょう。
〔2007年12月9日 降臨節第2主日(A年) 高田基督教会〕