「来るべき方は、あなたでしょうか。」
2007年12月16日
マタイ11:2〜11
ずいぶん前のことですが、毎週教会に来ているある青年が、思い詰めた表情で、私の所に来て質問しました。
「先生、聖書というのは、すべての人の悩みに答えてくれる書物なんでしょう。人生の道しるべとか、人生の指導書とか言いますよね。聖書は、人生のどんな問題にも答えてくれるんでしょう。
そしたら、失恋した時にはどうしたらいいのか、その答えはどこに書いてあるのですか。聖書のページをめくって一生懸命探してるんですけど、そんなことはどこにも書いてないんです。」
「それよりも、イエス・キリストという人は、失恋したことはあるんですか。失恋したことのない人が、どうして、失恋して苦しんでいる人の気持ちをわかってくれるんですか」と。
その青年は、最近、おつきあいしていた女性にふられたことを知っていましたので、真剣に苦しんで、聖書に救いを求めている気持ちがよくわかります。
私も若い頃でしたので、そのように詰め寄られて返答に困りました。何と答えたのか覚えていないのですが、その青年と議論を始めたように思います。
聖書の中で、イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言っておられます。聖書には私たちの生き方が示されています。聖書を読むと私たちの人生のあらゆる問題を解決する答えがここにあります。ほんとうの救いはここにありますというようなことをよく言います。聖書全体のテーマは、「愛」だというようなことも言います。
そこで、聖書を手に取って、読んでみても、恋愛のことや、親子の問題や、嫁姑の問題や、会社や家庭の人間関係のことなど、そのような具体的な人との付き合い方や方法が書かれているわけではありません。
聖書は、単に人生の教訓や道徳、修養の書物ではありません。人生問題、悩みに答えるハウツーものの書物でもありません。
それでは、私たちが手にする聖書は、何が書いてあるのでしょうか。聖書は、私たちに何を教えようとしているのでしょうか。聖書が掲げているテーマというものがあるとすれば、それは何でしょうか。私たちは何のために聖書を読むのでしょうか。
あえて、聖書のテーマを一口に言えば、それは、あの「イエス」という方は、誰なのか。イエスとは何者なのかということを知ってほしいということだと思います。
イエスという方のことを正しく知ってほしい、この方を受け容れなさい。ほんとうにこの方を受け容れると、神さまのことがわかります。神さまとの関係を正しくしなさいということを言おうとしているのです。
いろいろなことが書かれていますが、聖書全体が口を揃えてそのように語っています。
聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、全部で66巻の書物から成っています。新約聖書には今から約二千年昔、イスラエルの国に現れたイエスという方の活動、イエスの教えなど、どんな生き方、どんな死に方をなさったかということや、その弟子たちの活動、またイエスを信じた人たちが書いた手紙などが記されています。 旧約聖書も、イエスが現れる前のイスラエル民族の歴史や預言が書かれているのですが、これもイエスを指さしています。旧約聖書の背景の上に立って、はじめてイエスという方はどんな方なのかを知ることができます。
さて、前置きが長くなりましたが、今日の福音書を開いて見たいと思います。
イエスは、ガリラヤのナザレという村で大きくなりました。ちょうど30歳になった時、突然人びとの前に姿を現して、宣教活動を始められたのですが、その最初の頃のことでした。
イエスが現れる少し前に、ヨハネという人が現れて、ユダヤ地方の人びとに「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んで、人びとに、罪の悔い改めを迫り、悔い改めた人びとにヨルダン川で洗礼を授けていました。そのことから、このヨハネは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれていました。
このヨハネは、厳しい戒律の中で生活をしているクムラン教団の一員だったと言われます。不信仰を責め、道徳的に生活が乱れている人びとをきびしく糾弾しました。とくに、その当時の王ヘロデが兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことで、その結婚は律法では許されないことだと言って、人びとの前で王の行いに激しく迫りました。そのために王から逮捕され、牢獄に入れられてしまいました。(マタイ14:1-12)
そのすぐ後に、イエスが人びとの前に姿を現し、宣教活動を始めたのでした。
牢獄に捕らわれているヨハネは、イエスがなさっている活動について噂を聞きました。それは、イエスが弟子たちを連れて、町や村をめぐり、神の教えを説き、奇蹟を行い、多くの人びとが押しかけているという噂でした。
そこで、ヨハネは牢獄の中から、自分の弟子たちを使いに出して尋ねさせました。
「旧約聖書に預言されている、救い主、来るべき方というのは、あなたでしょうか。それとも、ほかにその方が来られるのを待たなければなりませんか。」
ヨハネの弟子たちは、言われたようにイエスの所へ来て尋ねました。
「わたしたちの先生であるヨハネが尋ねています。来るべき方は
あなたでしょうか。それともほかに来られるのを待たなければならないでしょうか」と。
イエスはお答えになりました。
「行って、あなたたちが、今、自分で見、自分で聞いたことをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、
足の不自由な人は歩き、
重い皮膚病を患っている人は清くなり、
耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、
貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
と言われました。
当時のユダヤ人は小さい時から律法の勉強をよくしていますから、預言者イザヤの言葉であることはすぐにわかります。
イザヤ書35章4節〜6に次のように記されています。
「心おののく人々に言え。
『雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。』
そのとき、見えない人の目が開き、
聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」
また、イザヤ61章1節には、
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。 打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、
つながれている人には解放を告知させるために。」
と記されています。
そして、ヨハネの弟子たちは、イエスが行っていることを目の当たりに見ました。イエスは、押し寄せてくる人びとに奇蹟を行い、彼らを癒していました。目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、自分の足で歩けない人が歩けるようになっています。
それは、預言者イザヤによって預言されていることが、まさにそこで行われている、その預言が実現している、成就しているということを見ました。
そして、貧しい人たちに福音が告げられています。彼らを解放するために「来るべき方」が、今、ここに来ているということを、ヨハネの弟子たちは、自分の目で見、そして耳で聞いて、ヨハネのもとに帰りました。
聖書は、このガリラヤのナザレから出たイエスという方こそ、何百年も昔の預言者が預言し、そして人びとが待ち続けている「来るべき方」であるということを証ししています。
しかし、この方が、ほんとうに「来るべき方」であったということが、確信をもって受け容れられ、「まことに神の子、キリストであった」と人びとに受け容れられたのは、もう少し後になって、イエスが、苦しみを受け、十字架につけられ、そして、3日目によみがえったという出来事があった後でありました。
聖書は、単に人生訓や精神修養のすすめを書いた書物ではありません。確かに、聖書は「愛」について教えています。しかし、そこに述べられている愛は、十字架にかけられ、命をかけた愛であり、人のために犠牲となられた方が、自らの死をもって教えられた愛なのです。
私たちが、このイエスという方に出会い、この方を受け容れ、この方にすべてをゆだねる時、私たちの魂は揺さぶられ、生き方が根底から変えられていく、その方に出会うということなのです。
洗礼者ヨハネは、イエスに尋ねました。
「来るべき方は、あなたでしょうか。」
そして、聖書全体が、これに答えます。イエス・キリストこそ、来るべき方です」と。
さて、私たちは、まもなく主のご降誕を祝う日、クリスマスを迎えます。クリスマスは、この「来るべき方」を迎え、この方こそ、来るべき方ですと、私たち一人一人が確信する時なのです。
東方の博士たちは、はるばる星に導かれてエルサレムにやってきました。「来るべき方はどこにおられますか」と尋ね、さらにベツレヘムの馬小屋に導かれ、「来るべき方」を見つけだし、この方に出会い、供え物をささげ、ひれ伏して礼拝しました。
荒れ野で野宿していた羊飼いたちも、天使から「来るべき方」が来られることを報らされ、すぐに立ち上がって、飼い葉桶に泣かされている幼子を見つけ、「来るべき方」にお会いして、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました。
「来るべき方」、「主よどうぞ、お出でください」、「主よ、どうぞ、わたしの心の中にお生まれください」と繰り返しながら、主のご降誕を迎えたいと思います。
〔2007年12月16日 降臨節第3主日(A年)説教 上野聖ヨハネ教会〕