インマヌエル
2007年12月23日
マタイ1:18−25
クリスマス、おめでとうございます。
今日は、この教会のクリスマス総員礼拝です。
今から2000年昔、神は、私たちに御子イエス・キリストをお与えになりました。この恵みを心から感謝し、主のみ名を賛美しましょう。
マタイによる福音書によりますと、マリヤは、聖霊によって身ごもったとあります。マリアには、ヨセフという婚約者がいて、ヨセフは正しい人でした。マリアのお腹が大きくなって、目立つようになったころ、結婚前のマリアに子供が生まれるなどということが、表ざたになることを望まないヨセフは、婚約を破棄しようかというようなことも考えて、悶々としていました。
このように悩んでいます時、ヨセフは夢を見ました。夢の中に、天使が現れて、こう言いました。
「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためでありました。
『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる」という意味である。』」
このイエスさま誕生の出来事がある800年ほど昔、エルサレムを中心にして活動していた預言者イザヤは、その時代の南ユダの王アハズに向かって語られた神の言葉を預言して、次のように言いました。今日の旧約聖書にそのことが読まれています。
「イザヤは言った。
『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせる だけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル と呼ぶ。』」
という言葉でした。
主イエスがこの世にお生まれになったのは、この800年昔の預言者の言葉が成就した、実現したものであると、マタイは言っています。
イエスという方は何者か、イエスはどこから来たのか、イエスは何のためにこの世に来たのかということが、イエスの生前も死後も最大の疑問であり、その当時の人びとにとって最も関心のあるところでした。
ふつうの人でないことはわかります。イエスが語られる言葉には、今まで聞いた誰の言葉よりも権威があります。その教えは、これを聞く人の心を打ち、魂に響き、一度聞いたら忘れられないものでした。 病気の人をいやし、さまざまな奇跡を行い、人々をひきつける魅力を持つ。いったい、この人は誰なのか、何者なのかと問います。
ある人たちは、彼に惹かれてついて歩き、ある人たちは、反撥して議論をふきかけました。
マタイの福音書の記者は、この問いに応えて、その方は、たまたま、偶然に生まれ、現れた人ではないのだ強調します。旧約聖書のイザヤ書に記されている言葉を引用することによって、神の御計画の中で、神の意志によってお生まれになるということを裏付けようとしています。ユダヤ民族が長い間、待ち望んだ方、来るべき方、救い主が現れるということを証明します。
その預言には、生まれてくる男の子は、「インマヌエル」と呼ばれるであろうと言い、そして、今、生まれようとする子は、「インマヌエル」と呼ばれると言います。この言葉に、この方の、イエスと名づけられる男の子の出現、存在の意味が語られています。
「インマヌエル」という言葉はヘブライ語ですが、ギリシャ語でもヘブライ語の発音をそのまま写して使われています。その意味は、「神は我々と共におられる」という意味です。それ以後にはこのような名前で呼ばれる人は出てきません。
イエス自身にも、「インマヌエルさん」とか、「インマヌエルさま」とか、具体的な名前として、この名で呼ばれたことはありません。
イエスの出生の意味であり、イエスとは何者なのかということの意味を表しているのです。
モーセは、エジプトから逃れて、ミディアンの地に行き、その土地で祭司エトロのもとで羊飼いをしていました。あるとき、羊を追って、ホレブ山に行き、そこで不思議な宗教体験をしました。柴が燃え上がっている炎の中から、神の声が聞こえました。
「エジプトの国で、お前の同胞イスラエルの民が、苦しめられている。そのうめき、叫び声が神にまで聞こえた。お前は、これからエジプトへ行って彼らを救い出せ。すぐに行って、彼らをエジプトから連れ出せ。」という命令でした。
モーセは、神に言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、わたしが、わたしを捕まえて殺そうとするエジプト王の所へ行って、イスラエルの人々を導き出さねばならないのですか。」と、抵抗し、文句を言いました。
これに対する神の答えは、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト3:12)という言葉でした。
そんなことができるはずがありません。わたしを一体何者だと思っているのですか、と問うと、だいじなところで、神は、いつも「わたしはあなたと共にいる」「あなたがたと共にいる」と、答えられます。
聖書では、神はあるか、ないかとか、神を信じるか、信じないかというような議論は、まったくと言っていいほどありません。それよりを、だいじなことは、神がいつもわたしたちと共にいてくださるか、いてくださらないのかということです。どんなに苦しい時にも、どんなに行き詰まったときにも、どんなに悲しいときにも、「神が共にいてくださる」。そこには、神の祝福があり、力、勇気、希望が与えられるというのです。反対に、どんなに、喜んでいても、どんなに利益を得ていても、あらゆる欲望がかなえらたとしても、もし、わたしたちと共に、神が共にいてくださらないなら、神の祝福はない、その先は破滅であり、絶望に終わる結果が待っているということです。
モーセは、命じられたようにエジプトに行き、イスラエルの民を導き出し、40年、シナイの荒れ野をさまよい、たいへんな試練を受けながら、乳と蜜の流れ出る国、カナンの地に導き出したのでした。その長い道中は、神はいつも、モーセの先となり、後になって、モーセと共にあり、モーセを力づけ、モーセを助けました。その長いエジプト脱出の物語が旧約聖書の中心となっています。
主イエスは、イスラエルだけではなく、すべて人類を導き出すために、この世に遣わされた神の御子です。
まず第1に、神は、御子イエスとたえず共におられました。そして、イエスご自身も、かた時も離れず、神と共におられました。その共におられるという、「おられ方」は、安楽や安易な姿ではありませんでした。人々から、誰からも理解されず、神の子でありながら、見捨てられ、侮辱され、裏切られ、むち打たれ、十字架につけられ、命を奪われ、その茨の道を歩みながら、神は共におられ、キリストも神と共におられました。
第2に、神は、私たちと共にいてくださるということを、私たちは確信することができます。このイエスご自身の、生きざま、死にざま、そして、苦難とゆるしと愛をもって、十字架と復活をもって、わたしたちが、神がわたしたちと共にいてくださることを示し、わたしたちが神と共にいることができる道を示してくださったのです。
イエスは、弟子たちに言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ14:6,7)
わたしたちがイエスと共にいることによって、神が共にいてくださるのだということを示すために、ご自身の身ささげられたのです。
イエスとは、何者ですか。イエスのお生まれになる意味は何ですか。
イエスこそ、インマヌエル、「神はわれわれと共におられる」です。「神はわれわれと共におられる」という神のみ心をこの世に、見える姿で表された「インマヌエル」そのものです。
私たちは、礼拝において、とくに聖餐式において、大切なところでは必ず呼び交わす言葉があります。
「主は、みなさんと共に」
「また、あなたと共に」
と呼び交わしながら、キリストの肉と血に与ります。
キリストの体を食べ、キリストの血を飲むという行為をもって、単に、頭の中で「わかった」つもりを越えて、私たちの心と体全体で、キリストが共にいてくださることを確認するのです。そして実感するのです。
クリスマスの聖餐にあずかります。心からこの恵みの感謝し、感謝と賛美の祭りをささげましょう
「主が、主の御降誕を祝う私たちと共に居てくださいますように」 クリスマス、おめでとうございます。
〔2005年12月23日 降臨節第4主日(A年) 京都聖ヨハネ教会〕