民は受け入れなかった。
2007年12月25日
ヨハネによる福音書1;11
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」
クリスマス、おめでとうございます。
今日は、イエス・キリストのお誕生日です。
世界中で、この方ほど多くの人びとに、誕生日を祝われている方はありません。北半球でも南半球でも、寒い国でも暑い国でも、「メリー・クリスマス」と言って、この日を祝っています。テレビでもラジオでも、クリスマスが溢れていますし、街を歩いていても、日本中がキリスト教になったのかと錯覚するほど、「メリー・クリスマス」が溢れています。近所に有名なお寺があって、そこの幼稚園のパンフレットの年中行事の中に「クリスマス会」と書いてあって、お坊さんの園長先生に聞くと、毎年「クリスマス会」をちゃんとやってますと言っていましたのでびっくりしました。
私たちキリスト教の教会も、世間のクリスマスに負けないように、しっかりとイエスさまのお誕生をお祝いしなければなりません。
さて、今、読んで頂いた降誕日の福音書、ヨハネによる福音書ですが、4つの福音書の中でいちばん後で書かれたもので、西暦100年頃に書かれたと言われます。この福音書には、いわゆる誕生物語というものはなく、ヨセフやマリアの名前も馬小屋も出てきません。そのかわりに、抽象的な言葉を使った表現で始まります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:1-5)
そして、
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」これがイエス・キリストなのだという、この一言だけです。
ヨハネ福音書が書かれた時代には、キリスト教は、広く地中海沿岸のギリシャやローマの国々に広まり、ギリシャ哲学的な抽象的な思考方法や表現方法の影響を受け、また、それらの国の人たちに理解してもらうために、このような書き方で表現されなければならなかったのだと思われます。
「初めに言があった」というこの「言」とは何でしょうか。
私は、今、言葉をしゃべっていますし、私たちは、言葉で知識を得、言葉で自分の考えや思いを、そして感情を伝えます。言葉で過去の出来事を語り、現在の状況を話し、また、未来のことについてもいろいろ述べることができます。口に出したり、文字にしなくても、私たちはいろいろなことを考える時、頭の中で言葉を使って考えています。
創世記の創造物語によりますと、神が、天地を創造される以前は、真っ暗闇、水に覆われ、混沌の状態でありました。そこに、神は「光あれ」と言われると、光があった。すると、光と闇に分かれ、昼と夜ができたとあります。この「光あれ」という神の「言」によって、世が創造されました。「光あれ」と命じる言には、命令者の意志があり、それは、神の思い、神のみ心そのものが現されています。「言」とは、神の意志、神の思い、神そのものを意味します。
そして、イエス・キリストがこの世に現れたことを、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言います。
神が、私たちと同じ肉体を取って、この世に来られたということです。言いかえれば、絶対であり、無限であり、完全である全知全能の神が、制限だらけの、ちっぽけで、脆くて、弱い、私たちと同じ肉体をとって、人間に見える姿でこの世に来られたということです。
しかし、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
今日は、この「民は受け入れなかった」というこの言葉にこだわってみたいと思います。
この世は、神の言によって創造されました。神の言によってこの世は在るのです。すべてのものの命も、この神の言の内にあるのです。しかし、神の言によって造られ、生かされている民、私たち人間、この世は、「言」を認めようとしません。
そこで、言は肉体を取って、この世に宿られました。それでも、人びとは、なかなかこの方を受け入れようとしなかったのです。
具体的な例を見てみましょう。
イエスさまは、弟子たちを招き、弟子たちと生活を共にし、彼らに教え、さまざまな奇蹟を見せ、たびたび、ご自身が誰であるかを知らせました。
ある時、イエスさまは、弟子たちに、「人びとはわたしのことを
誰だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは、口々に、「洗礼者ヨハネだと言っています」「預言者エリヤだと言っています」、「エレミヤだと言っています」、「預言者のひとりだと言っています」と答えました。そこでイエスさまは言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。
すると、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。するとイエスさまは、「あなたは幸いだ。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われました。(マタイ16:31-20)
弟子たちは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と正しく答え、信仰告白をしたのです。
ところが、しばらくして、イエスさまが、裏切られ、逮捕され、裁判に引き回されている時、ペトロは、どうだったのでしょうか。 どうなるのかと心配しながら、大祭司の屋敷の中庭で座っていて、この家の女中に、「お前も、あのガリラヤのイエスと一緒にいた」と言って指さされた時、みんなの前で打ち消して「何のことを言っているのか、わたしにはわからない」と言い、「そんな人は知らない」と言い、3度問われて、3度、「わたしは関係ない」と打ち消しました。自分も捕らえられることが恐かったのです。
ゴルゴタの丘で、主イエスが、十字架に架けられていたあの時、その瞬間に、ほんとうに主イエスを受け入れていた人はいたでしょうか。何人がこの方を「言は肉体を取って、私たちの間に宿られた方である」と受け入れていたでしょうか。「神の子」として受け入れていたでしょうか。
エルサレムの市民も、ユダヤ教の指導者たちも、弟子たちやガリラヤからついてきた婦人たちでさえ、遠くに立って、これを見ているだけでした。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
この十字架の出来事があって、そして、主イエスが3日目によみがえられたということがあって後、弟子たちや婦人たちの上に聖霊が降り、聖霊に突き出されて、そこで始めてこの方を受け入れることがでるようになりました。
そのためには、私たちと同じ肉体を持った主イエスが、鞭打たれ、辱めを受け、限界を超える苦しみを受け、そして、十字架につけられ、死ななければなりませんでした。そして、3日目によみがえり、たびたび弟子たちのところに現れ、手と足の釘痕を見せ、息を吹きかけて聖霊を受けて、生まれ変わることができました。受け入れる者と変えられたのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)
言が肉体をとりこの世に宿られた、この方を受け入れるためには、このような、神ご自身の痛みと苦痛が必要であり、神は時間と手間をかけられました。しかし、神は、この出来事の後、この出来事によって、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えてくださったのです。
漢字の「愛」という字は、「受ける」という字の真ん中に心を書きます。私は、なんとかの一つ覚えで、「愛とは、相手の心を受け入れることである」と思っています。これは、まったく、神学的ではありませんし、国語的にも、漢和辞典にも載っていない説明です。
カウンセリングの方法には、いちばん大切なこととして「受容」受け容れるということがあります。相手の話を聞いて、徹底的に相手の人を受け容れることが求められます。別の言葉で言いかえると、それは、相手を徹底的に理解するということです。
あなたが、私に合うようにこう変わらないとあなたを受け容れることはできませんと言ってしまいがちです。現在の「ありのままのあなた」を全部受け容れましょうという時、そして、その関係が出来たとき、悩み、悲しみ、苦しんでいる人のほんとうの心に触れ、カウンセリングが成り立ちます。言いかえれば、それは「愛する」ということです。愛は人を立ち上がらせ、人を慰め、人を力づけます。勇気を与えます。希望を与えることが出来ます。
神は、私たちを、弱さや醜さをいっぱい持った私たちを、そのまま、ありのままで受け容れてくださっています。神は、私たちを愛してくださいます。しかし、私たちは、神を受け入れない。受け入れることができない。神のみ心を理解できない、神を愛することができないで、神以外のものに心を奪われてしまいます。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(�汽茱魯�4:7-10)
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
この方が、今日、私たちの間にお生まれになりました。
これほど、手間ひまかけて、大きな犠牲と痛みをもって、神は私たちを愛してくださり、最も大切なひとり子を与えてくださいました。私たちは、このことにどのように応えることができるでしょうか。何ができるのでしょうか。何をしなければならないのでしょうか。ただ、私たちにできることは、この恵みをしっかりと受け止め、こころから感謝し、神に賛美をささげることです。
主の御降誕を感謝し、「感謝と賛美の祭り」をささげましょう。
〔2007年12月25日 降誕日説教 京都聖ステパノ教会〕