「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」
2008年01月13日
マタイ3:13〜17
教会の暦では、先週の主日「顕現日」(1月6日)から、「顕現節」というシーズンに入っています。顕現節の「顕現」とは、英語では「エピファニー」と言います。これはギリシャ語の「顕現、現れ、輝き、出現」という意味を持った「エピファニア」から来ています。
とくに新約聖書の「エピファニア」には、イエス・キリストのこの世での出来事、すなわちキリストの誕生、活動、教え、招き、派遣、受難、死、復活などによって、神が見える姿でこの世に現れたのであり、これを信仰する人びとは、そのこと告白し、そして「神に」応える行動をとるよう呼びかけられたのだというメッセージが込められています。
今日の主日は、顕現後第1主日であると共に、「主イエス洗礼の日」と呼ばれる日です。
イエスさまが人びとの前に現れる少し前に、洗礼者ヨハネが、ユダヤの荒れ野に現れて「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えて、ヨルダン川で洗礼を授けていました。これを聞いた大勢の人たちがエルサレムとユダヤ全土から詰めかけて、洗礼者ヨハネから洗礼を受けていました。
そこに、イエスさまが、突然現れました。このように大勢の人びとの前に姿を現された最初の出来事でした。
マタイの福音書によりますと、イエスさまは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、ガリラヤからヨルダン川までわざわざ出て来られたと記されています。
イエスさまは、他の人たちと同じように、川の中に入り、洗礼を受けようとされました。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようして言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき者です。それなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。
しかし、イエスさまはお答えになりました。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだから。」
そこで、ヨハネは、言われたとおりにイエスさまに洗礼を授けました。
このイエスさまが、ヨハネから洗礼をお受けになったという出来事は、どのように理解したらいいのか、神学者たちの間でも意見が分かれるところです。
それは何故かといいますと、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼というのは、人びとに罪の悔い改めを迫り、多くの人びとは罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けていました。
私たちが知っている、私たちが信じているイエスさまは、神の子であって、神がこの世にお遣わしになった方です。したがってイエスさまは、私たちと違って、罪を持たない、罪を犯しておられない方で、その方が、すべての人びとの罪を負って十字架に架けられ死なれたのだと、私たちは信じています。
そのようなイエスさまが、なぜ罪の悔い改めを迫るヨハネの洗礼を受けなければならなかったのかという問題です。
その解釈については、さまざまな説が出されていますが、このようなことが考えられます。
第1に、洗礼者ヨハネが、イエスさまが洗礼を受けようとなさるのを思いとどまらせようとしたということです。そして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言ったということです。
この言葉からすると、ヨハネには、イエスさまのことを誰であるか、どのような方であるかがわかっていたということができます。ヨハネは悔い改めを迫り、罪の告白と共に罪を洗い清めるために洗礼を授けていました。これは旧約聖書に時代の洗礼に対する考えであり、習慣でありました。だから、ヨハネはイエスさまにはそのような洗礼は必要のないものであり、また自分にはイエスさまにそのような洗礼を授ける資格がない者であることを知って思いとどまらせようとしたのでした。ヨハネは言っています。(3:11)
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
イエスさまが受けようとされた洗礼は、聖霊による洗礼という新しい意味づけがなされていたのではないでしょうか。
第2に、イエスさまは、神でありながら、私たちと同じ肉体をとって、私たちと同じ人間として、この世に来られました。罪を持たない神の子が、罪の中にがんじがらめになっている人間の肉体を取っておられるのです。パウロの言葉を借りますと、フィリピの信徒への手紙2章6節以下にこのように言っています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-8)
完全な神が、完全に人であるために、私たちと罪を連帯するために、私たちと同じ罪を負うために、人びとと同じ洗礼をお受けになったのではないかというのです。イエスさまはヨハネから洗礼を受けることによって、人の罪を担う苦難の僕としての道を歩まなければならないこと、さらにすべての人の罪の赦しを得させる代償として苦難を受け、死ななければならないというご自分の使命をこの時あきらかにして表しておられると考えることができます。
第3に、イエスさまはお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
こう言って、イエスさまは洗礼をお受けになりました。
「正しいことをすべて行うのは」と言われた、この「正しいこと」とは何でしょうか。それは、私たちが一般的に言う「正しいか、正しくないか」ということとは違います。
聖書がいう「正しいこと」というのは、神のみ心、神の意志にかなっていることが正しいことであり、どんなことでも神のみ心にかなっていないことは正しくないことです。すべての正義は神から出る。神の意志に基づいています。
イエスさまが、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われるのは、言いかえれば、「それは神のみ心にかなっているからです。」「それをすることが神のみ心です」ということです。私たちが持つようなさまざまな思いや理屈を越えたところにある神のみ心に、謙虚に従おうとなさっているイエスさまを見ることが出来ます。
このようにして、イエスさまはヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼をお受けになると、すぐに水の中からあがられました。
その時、天が開け、聖霊が鳩のように降り、そして天から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」
この光景は、そこに居たすべての人たちに見えたのか、その声が聞こえたのか、それはわかりません。「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とありますから、イエスさまにだけ見えた、またイエスさまにだけ聞こえた声かも知れません。
イエスさまが洗礼をお受けになった瞬間、神の顕現があったということです。神がご自身をイエスさまに現されました。
父親が、または母親が、子供に呼びかけるように、神が、愛するひとり子、イエスさまに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけておられます。
これから、イエスさまは、宣教活動、神の人びとへの救いのご計画を遂行する使命をもって第一歩を踏みだそうとしておられます。この大事な時に、父である神は、わが子に信号を送り、エールを送っておられます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
マタイ福音書17章1節〜8節に、主イエスのお姿が変わられたという出来事が記されています。そこでも同じように、イエスさまの上に天から声が聞こえたという場面があります。
イエスさまは、弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。その時、イエスさまの姿が、弟子たちの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなり、そのようなイエスさまが、そこに現れたモーセとエリヤと語り合っておられたという不思議なことが起こりました。
その時、光り輝く雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえました。(16:21〜17:8)
この声が聞こえたのも、ご自分が「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と、弟子たちに打ち明けらたすぐ後のことでした。イエスさまが、いよいよエルサレムに向かい、苦難の道を歩まれようとする直前、神の救いの達成のために最もだいじな時を迎えようとする直前のことでした。
イエスさまは、いつも大勢の人たちに取り囲まれていながら、静かな所に退いて祈っておられます。つねに父である神と交信しておられます。そして、神の方からも、イエスさまに向かって、声援を送るかのように、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、天からの声が聞こえ、イエスさまを励まし、力づけておられます。
神は、ご自分のほうからご自分を現される方です。私たちにも、神は、たびたび、ご自分の方から、ご自分を現してくださいます。
いろいろな出来事を通して、私たちの目や耳を通して、多くの恵みといつくしみをもって知らせてくださいます。
聖書のみ言葉を通して、聖餐式やその他の礼拝を通して、クリスチャンの交わりを通して、また、日常生活のあらゆる自然の営みや人間の行いを通して、神は、私たちに、チラッ、チラッと、ご自身を現してくださいます。
私たちは、この神から送られる信号を正しく受け取っているでしょうか。何ものかによって心が曇らされて、心が鈍くなって、神の信号を受け取ることができない、または耳や目を、心をふさいでしまっているようなことはないでしょうか。
顕現節のこの期間、神の声、神からの信号に心を集中したいと思います。また、この神からの呼びかけに私たちはどのように応じたらいいでしょうか。私たちそれぞれの生活の中から考えてみたいと思います。
顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
天にいます父よ、あなたは、み子イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊を注ぎ、愛する子と宣言されました。どうかみ名によって洗礼を受けたすべての者がその約束を守り、み子を主また救い主として大胆に告白することができますように、み子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
〔2008年1月13日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 高田キリスト教会〕