「先生、どこに泊まっておられるのですか」

2008年01月20日
ヨハネ1:29〜41  私たちが使っている言葉には、表面的な何かを表す意味と、その奥に隠された、もっと深い別の意味を持ったものがあります。  たとえば、「見る」という言葉でも、私たちが、自分の目で姿、形、光景を見るというだけではなく、「人を見る目」とか、「人を見る」と言いますと、その人の心の中をのぞき、性質まで判断することを言います。「人からどう見られているか」となると、非難や批判されていることになりますし、何かの関係を推測されていることになります。 また、「知る」という言葉で考えますと、「情報を知っている」「知識を持っている」ということから、さらに「見分ける」「深く理解する」「悟っている」「予見する、予知する」「経験する(酒、異性)」「あの人は疲れを知らない人だ(否定)」などなど。  言葉には、二重、三重の意味があって、その言葉を通して、さらにもっと深い意味を表そうとしているものがたくさんあります。  聖書にも、そのような言葉がたくさん使われています。表面的には、誰でもよく遣うやさしい言葉にも、その言葉の向こうに、信仰の真髄や、ものごとのほんとうの意味を表そうとしたり、長い歴史の中のある出来事が隠されていたりすることがあります。  聖書は、何回読んでも、その都度立ち上がって語りかけてくるとか、意味が違って聞こえるとか、その度に新しい感動を呼び起こされるというのは、そこに深さがあるからではないかと思います。  そのような思いで、今日の福音書をもう一度読み返してみましょう。  ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネは、ある時、イエスさまが自分の方へ歩いて来られるのを見て言いました。  「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と。  この言葉には、旧約聖書のだいじな出来事から来る大きな意味があり、ヨハネのイエスさまに対する信仰の告白があります。  出エジプトの出来事を思い出します。  イエスさまの時代から1300年ほど昔、イスラエルの民は、エジプトに寄留していて、奴隷のように扱われるようになり、最後には、エジプト王によって、強制労働をさせられ、うめき苦しんでいました。  そこで、神は、モーセを遣わして、ユダヤ民族をエジプトの地から脱出させようとしました。ところが、エジプト王は、だいじな労働力を失うことを恐れて、そのことを妨害します。モーセは、神の力を受けてさまざまな奇蹟を行い、何度も迫りますが、王はますます頑なになって許しません。そけで最後に、神は言われました。 「わたしは、なおもう一つの災いをエジプト王ファラオとエジプトにくだす。イスラエルの民全員に言いなさい。『今月の十日、人はそれぞれの家、家族ごとに小羊を一匹用意しなさい。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。その日の夕暮れに、みなでそれを屠り、その血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居に塗りなさい。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちが助かるしるしとなる。これが主の過越である。」(出エジプト12章)  イスラエルの民は、言われたように、雄の子羊を屠り、その血を家の入口に塗りました。すると、神が起こした災いはその家を過ぎ去り(Passover)、全員助かりました。反対にエジプトの民、王宮にまで災いが万延し、男の子の初子が死に、王の息子も死にました。  エジプト王は、これに恐れて、イスラエルの民を解放し、モーセに率いられたイスラエルの人々は、エジプトから脱出しました。  これは過越の祭りとして語り継がれ、守り続けられ、イスラエル民族の「救い」の原点ともいうべき忘れてはならない出来事でした。  ヨハネが、イエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言ったのは、「この方こそ、人びとの罪を取り除くために、入口の柱に血を塗るために屠られた子羊」、「世を救ってくださる方だ」という意味であり、ヨハネの信仰の告白の言葉でありました。  さて、ヨハネが、イエスさまを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言った日の翌日、洗礼者ヨハネにも大勢の弟子たちがいましたが、ヨハネは2人の弟子とともにいました。  ヨハネは、歩いて来られるイエスさまを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と、もう一度言いました。  2人の弟子は、それを聞いて、イエスさまについて行きました。するとイエスさまは、振り返って、彼らがついて来るのを見て言われました。「何を求めているのか」と。するとヨハネの弟子たちは言いました。「ラビ(これは『先生』という意味です。) どこに泊まっておられるのですか」 すると、イエスさまは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らは、イエスさまについて行って、どこにイエスさまが泊まっておられるかを見ました。  そして、その日は、イエスさまが泊まっておられる所に泊まりました。それは夕方の4時ごろのことでした。  洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに従った2人のうちの1人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでありました。アンデレはは、そのあとすぐに自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア(『油を注がれた者』という意味、キリスト、救い主) に出会った」と言いました。この後、アンデレは兄弟ペトロをイエスさまの所へ連れていったと記されています。  マタイ、マルコ、ルカの福音書が伝える、ペトロ、アンデレとイエスさまの出会いの状況は違いますが、このような違った伝承があったのではないかと言われています。  ここで、もう一度、言葉にこだわってみたいと思います。  ヨハネの2人の弟子たちは、イエスさまに出会い、自分たちの先生であるヨハネに、「あの方は、「世の罪を取り除く神の子羊だ」と言われて、イエスさまについて行きました。そして、イエスさまから「何を求めているのか」と聞かれて、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。  この「泊まる」という言葉ですが、新約聖書が最初に書かれたギリシャ語とでは、「meno(メノー)」と言う言葉が使われています。 この言葉には、「とどまる、待つ、残る、住む、続ける、生きながらえる、生き残る、宿る、泊まる」といった意味があります。  ヨハネの福音書では、この言葉が40回も使われているのですが、ヨハネ福音書を書いた人は、とくに特別の意味を込めて、この言葉を使っています。これを通して何かを伝えようとしています。  ヨハネ福音書15章1節以下に、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」という有名な聖書の個所がありますが、その4節では、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。  この「つながっている」という言葉もは、「泊まって」と同じ「メノー」という言葉が使われています。  イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、「何を求めているのか」とお尋ねになりました。これに対して、彼らは、「先生は、どこに泊まっておられるのですか」と、反対に尋ね返しました。  それは、今晩泊まる所、宿屋ですか、ホテルですか、民宿ですかと、具体的な寝る場所を聞いているいると同時に、「どこにとどまっておられるのですか」「どこにつながっておられるのですか」、「イエスさま、あなたはどなたですか。誰につながっておられるのですか」「あなたは神とどのようなつながりがあるのですか」と尋ねています。  イエスさまとは何ものか。誰なのか。どこから来てどこへ行こうとしておられるのか。イエスさまと神とはどんな関係があるのか、これこそが、聖書全体のテーマであり、いちばんわかって欲しいと願っている所です。  イエスさまは、「来なさい。そうすればわかる」と言われました。そして、彼らはついていって、どこに泊まっておられるのかを見ました。この方が、どこにとどまっておられるのか、誰につながっておられるのか、誰であるか、どこから来た方なのか、神とどのような関係にあるのかを知って確かめました。単に聞いて、見たというだけではなく、この方を受け入れ、信じたことを意味します。  2人のうちの一人、アンデレは、兄弟シモン・ペトロに会い、「わたしは、メシア、救い主に出会った」と言って、信仰を告白し、証ししました。  彼らは、イエスさまのもとに泊まり、イエスさまに「とどまった」「つながった」のです。イエスさまのもとにとどまった結果、この方がどなたなのかが、ほんとうにわかり、受け入れることができました。そして、証しする人に変えられていきました。      〔2008年1月20日 顕現後第2主日(A) 京都聖ヨハネ教会〕