「わたしについて来なさい。」
2008年01月27日
マタイ4:18〜22
1 人との出会い
私は、この年になって、「人との出会い」ということをよく考えます。生まれてこのかた、今までに何人の人に出会ったでしょうか。ほんとうに数え切れない人々と出会い、また別れてきました。
その「出会い」の「出会い方」というものは、それぞれみんな違います。生まれてきて父母にあったとか、兄弟姉妹の関係とかいう家族の関係、学校で出会った友人の関係、先生との出会い、師弟の関係。
さらに職場での関係とか、教会での関係とか、いろいろな場があり、いろいろな関係があります。
その人との出会いが、自分の人生を変えたとか、良い意味でも悪い意味でも、自分の生きる生き方に大きな影響を与えたというような人との出会いがあります。
そういうことを考えますと、恋愛とか結婚とかいうものも、「出会い」が人の運命を変えるもっとも大きな出会いだということができます。
私などよりもっと年配の方の話を聞きますと、お見合いの時に、たった一度会ったきりで、すぐに結婚し、金婚式を迎えたという方がいます。また、親同士が決めた結婚で、一度も会ったことがなく、式の時に初めて顔を見たという方の話を聞いたことがあります。それでも生涯を共にし、幸せに過ごしておられます。
そうかと思うと、何年もおつきあいをして、お互いに相手のことをよく知り合って、何もかもわかって結婚して、しかし、長続きしなかったという人もあります。
人間と人間の「関係」の不思議さというものには、いつも考えさせられたり、驚いたりします。
2 イエスと弟子たちの出会い
さて、イエスさまには、12人のお弟子さんたちがいたことが知られています。
ペトロ、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダ、この12人が、いわゆる12弟子と呼ばれます。
この12人の弟子たちのほかにも「弟子たち」と呼ばれる人たちがいました。ユダヤ人の中で、イエスさまに好意を持ち、イエスさまの一行について歩いていた人たちがいました。イエスのフアンというか、追っかけ、支持者、共鳴者、シンパ(sympathizer)と言うのでしょうか、聖書では、一般的にクリスチャンを指して「弟子たち」と言っている所もあります。
ルカ6章17節には「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」とあります。
また、ヨハネの福音書6章60節には「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて「あなたがたはこのことにつまずくのか。」言われました。イエスを取りまいてぞろぞろついて歩いている人たちにはいろいろな人がいました。
それでは、12人の弟子たちと、もっと広い意味での弟子たちとはどのように違うのでしょうか。
この12弟子は、いつもイエスさまと行動を共にしていました。そして最も近くにいてイエスさまの教えを受け、イエスさまに訓練され、宣教者として派遣され、悪霊を追い出す力を与えられ、最後まで行動を共にした人たちでした。
イスカリオテのユダ以外は、十字架上のイエスさまを見、お墓に葬られた後、3日目の朝、空っぽになった墓を見届け、復活の証人となった人たちでした。
弟子としての道はきびしく、イエスに対する忠誠が要求され、ほんとうの弟子となるためには一切を捨て、十字架を負って従わねばならないことを、イエスから要求されました。互いに愛し合うべきことが教えられました。
このようなイエスの弟子になるためには、一人ひとりにイエスさまとの「出会い」があり、イエスの招きがありました。
3 「わたしについてきなさい。」
今日の福音書には、短い文章ですが、ペテロとその兄弟アンデレ、そして、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネと、イエスさまとの出会いが記されています。
まず、ペテロとアンデレは、ガリラヤ湖のほとりで網を打って魚を捕る漁をしていました。かれらは漁師でした。イエスは、この2人に、
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると2人はすぐに網を捨ててイエスに従ったとあります。
この頃、日曜学校で子供たちに、このイエスと弟子の話をすることは難しくなっています。今、学校や家庭では、知らないおじさんに声をかけられても聞いてはいけない。知らない人について行ってはいけない。頭を撫でに来たら、いちもくさんに逃げてきなさいと教えています。いわば、人を見たら泥棒と思え、不審者と思え、人を信じるな、道を聞かれても人に親切にするなという、すべての人に不信感を持たせるような教育をしています。まことに悲しいことであり、やはりどこかおかしいという気がします。
イエスさまと、ペトロ、アンデレの出会いは、今日の教育からは考えられないことでした。このマタイによる福音書に見る限り、イエスは、自己紹介をしていませんし、ペトロもアンデレも、この人について何も知っていません。その前では教えもありませんし、奇跡も行っていません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言い、招いたというよりも、命令して、「ついて来なさい」と言われたのです。そして、これを聞いてペテロとアンデレの兄弟は、手に持っていた網を捨てて、「すぐに」イエスに従ったのです。
さらにイエスは進んで行かれて、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父と一緒に舟の中で、網を繕っているのをご覧になりました。そして、このヤコブとヨハネをお呼びになりました。ペトロとアンデレに言ったと同じように「ついて来なさい」と言われたのでしょう。
彼らは舟も父親もそこに残して、イエスに従いました。この時にも、「すぐに」従ったと述べられています。聖書には、その時の場面の背景や時間の経過については、それ以上くわしくは何も記されていません。しかし、言いたいことは、ペトロもアンデレもヤコブもヨハネも、「すぐに」従ったということだと思います。
4 信じることと従うこと
私たちなら、このような時、いろいろなことを考えます。
この人について行って大丈夫だろうか。信用できる人かどうか。何をしてくれるか。ついて行って将来に見込みはあるのだろうかと、考えます。身元調査をして、肩書きを見て、よく話を聞いて、人の噂も確かめて、そして、信用できるか、信頼できる人かどうかを決めます。
ここで問題になるのは、信頼が先か、従うのが先かということです。現在の教育は、信頼できないからついて行ってはいけないと教えます。
信仰と服従の関係について、ドイツのボンフェッファーという神学者は、まず従うことが先だと言います。神を信じるかどうか。神が信じられるかどうか。神は信じるに値するかどうか。じっと座って考えても答えは出ません。それよりも、まず命令に従うことです。
まず、神の声を聞いて立ち上がることです。
ちょうど、椅子に座っている人に、「立ちなさい」といって、すぐに立ち上がるように、体を動かすことです。
まず従いなさい。そうすればどのように信じればいいか、信じて生きるということはどういうことかがわかります。
ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、「わたしについて来なさい」と言われて、まず、立ち上がり、そして、歩き始めました。生活の手段である魚をとる網も、舟も、父親さえもそこに残して、言いかえれば、経済的な裏付けや将来の生活の心配、損や得を越えて、それらのものを全部捨てて、イエスに従ったのでした。イエスの弟子になったのです。
「信じられたら従います」という考え方では、イエスの弟子にはなれません。神の国を受け取り、永遠の生命に至る道、ほんとうの幸せに触れることはできません。
「二人(ペテロとアンデレ)はすぐに網を捨てて従った。この二人(ヤコブとヨハネ)もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」
5 イエスさまならどうなさるか。
イエスさまに従うとはどういうことでしょうか。
とくに、現在、この時代に生きる私たちが、イエスさまに従って生きるとは、具体的にどのような生き方をすることでしょうか。
「イエスさまならどうなさるか」
私は、それは、それぞれが置かれた場において、その環境と状況の中で、もし、イエスさまがこの場におられたらどのようになさるかを考えてみるという生き方をすることだと思います。
自分が、今、直面している問題、悩んでいる問題、悲しんでいる、寂しい思いをしている、このわたしの立場にイエスさまがおられたら、どうなさるだろうか、何とおっしゃるだろうかと考えてみることです。 そして、イエスさまなら、きっとこうなさるにちがいない、イエスさまならこのように言われるにちがいないとわかれば、勇気をもってそれを実行することです。すぐに立ち上がって、その通りやってみることです。イエスさまなら、そんなことはなさるはずはない、そんなことを言われるはずがないとわかれば、忍耐をもってそのようにしない、言わないことです。
それがイエスさまに従うということです。
そのためには、私たちは、イエスさまについて、もっともっと知らなければなりません。
私たちの前に立って、「わたしについてきなさい」と言われます。
〔2008年1月27日 顕現後第3主日(A年) 下鴨基督教会〕