栄光に輝くイエス
2008年02月03日
マタイ17:1-9
教会の暦では、「顕現節」は今日で終わり、6日の水曜日には「大斎始日」を迎え、大斎節に入ります。今年は、復活日が早く、3月23日にイースターを迎えますので、その関係で顕現節後の主日が4週で終わってしまいます。
大斎節前主日には、毎年、今読みましたように、山の上で主イエスの姿が変わられたという出来事の聖書の箇所が読まれます。
この日の特祷は「神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました。どうか、わたしたちが、信仰によってみ顔の光をあおぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」と祈ります。
「わたしたちが、信仰によってみ顔の光をあおぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように」とはどういうことでしょうか。このことから「栄光を受ける」ということについて学びたいと思います。
主イエスは、約3年間、宣教活動をされ、ある時突然、顔をまっすぐにエルサレムに向け、弟子たちを連れてエルサレムに向かって進まれました。「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明けられた直後のことでした。
主イエスは、弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登られました。その山の頂上で、弟子たちの目の前で、主イエスの姿が変わったという事件がおこりました。
どのように変わったのかと言いますと、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています。真っ白になり太陽のように光り輝かれたのです。
そして、さらに弟子たちは不思議な光景を目にしました。そこにモーセとエリヤが現れ、主イエスと話し合っておられたというのです。モーセは主イエスの時代から1300年ぐらい昔の人です。エリヤは860年ぐらい前の預言者です。イスラエルの人たちは、神の律法はモーセを通して与えられたことを知っていますし、エリヤは預言者たちが活躍した王国分裂時代の北イスラエルの最初の預言者です。預言者の中の預言者として知られています。
写真も肖像画もない時代に、弟子たちにその人たちがモーセとエリヤだということがどうしてわかったのか不思議ですが、その光景から主イエスが、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤと親しく語り合っておられると思ったのでしょう。
ペトロは思わず口走りました。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
ユダヤには、いくつかのお祭りがありました。3大祭りの一つで「仮庵の祭り」という祭りがありました。秋の収穫祭で、「取り入れの祭り」とも言われました。ぶどうやオリーブの収穫が終わった後、畑に木の枝で編んだ小屋を造り、そこに7日間寝泊まりをするというしきたりがありました。(レビ記23:39) 神に収穫を感謝する行事でした。
頭が真っ白になったペトロは、とっさに何と言っていいのかわからず、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と口走りました。
そのうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。3人の弟子たちはこれを聞いて、思わずひれ伏し、非常に恐れを感じました。彼らは頭も上げられずひれ伏していると、主イエスが近づき、彼らに手を触れて言われました。
「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ますと、そこにはイエスのほかにはだれもいませんでした。
主イエスと弟子たちが山を下りてきたとき、イエスは、「わたしが死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちにお命じになりました。
これが、山の上で主イエスの姿が変わられたという出来事です。
主イエスが、これからエルサレムに上り、いよいよ苦難の道を、十字架への道を進まれようとする時、神とみ子イエスが交信を交わしておられる場面です。人となった神の子に父である神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、神の愛の確認をし、エールを送っておられます。
「主イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」「光り輝く雲が彼らを覆った。」この光景から、主イエスが神の栄光をお受けになったと言います。
特祷の中で「神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました」と祈ります。
さて、聖書の言葉の中に「栄光を受ける」とか「栄光をあらわす」という言葉が、たびたび出てきますが、「栄光」とはどんなことを意味するのでしょうか。「栄光」について考えてみたいと思います。
旧約聖書が書かれたヘブライ語では「カバド」といい、「重さ、重要さ、価値あるもの」を意味します。この言葉が、栄え、誉れ、光栄、威勢、栄華という言葉に訳されて使われています。
これが、新約聖書のギリシャ語では「ドクサ」と訳されています。これは「意見、評価、栄光」と訳されています。
日本語の辞書を引いてみますと、「かがやかしいほまれ、光栄、名誉」「さいわいを約束する光」
ついでに英語では「グローリー」と言います。ラテン語の「グロリア」からきているのですが、「栄光、誉れ、名声」という意味のほかに「神に対する感謝、賛美、神の栄光、恵み」「壮観、荘厳、華々しさ、輝き」という意味を持っています。余談ですが、日本の神、仏像の後光とか光輪を英語ではグローリーと訳されています。
「勝利の栄光」とか「栄光に輝く」と言います。スポーツでも芸術や学問、研究の分野でも、競争に勝って、一位になった人、よい成績を上げた人を褒め称えます。「よくやった」「よく頑張った」とその努力と才能と力に賞賛の拍手を送ります。その一人の人にスポットライトが当てられ、その人は光り輝く。オリンピックなどでは、世界中の人々の賞賛を浴びます。その誉れを受けるために、栄光を受けるために、多くの人々は、汗を流し、大変な節制努力をしています。
すべての人から賞賛、栄誉を受ける価値のある人、値打ちのある人が、褒め称えられるそのことが栄光を受けるということです。
オリンピックの表彰台の場面を思い浮かべてください。高さが違う3段の台があって、真ん中の一番高い所に優勝した人、1等になった人が上がります。その次の高さの段に2位の人、そして、一番低い段に3位の人が上がります。月桂冠がかぶせられ、金メダルを受け、花束を受け、ライトが当たり、勝者を讃える音楽が鳴り響き、同時に、この情景が世界中にテレビ中継されています。この瞬間こそ、優勝者は勝者の栄光を受けている瞬間です。名誉、栄誉、賞賛を全身に浴びて、栄光の光りに輝いています。
しかし、もし、何かの手違いで2位の人が、または3位の人が、一番高い台、優勝者が上るはずの台に上がり、一位の人が低い方の台に上がったらどうでしょうか。観衆からブーイングが起こり、テレビを見ている世界中の人たちは非難し、怒りはじめます。たかが10センチか20センチの台の高さの違いですが、これを見ている人の気持ちがおさまりません。それは価値ある者が価値ある者とされていないからです。賞賛されるに値する値打ちのある人が賞賛されることが、栄光を受けるということだと思います。
私たち人間の世界で、栄光を受けるということはそういうことですが、「神の栄光」は、人間の世界の栄光を受けるということとは違います。エフェソの信徒への手紙1:17に
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」とパウロは言います。「栄光の源である神、御父」と呼んでいます。太陽が光りと熱の源であるように、神は栄光そのものであり、栄光の源です。
人間が持つ栄光と神の栄光は違います。太陽と月では、同じように輝いていますが光の源において違います。月は太陽の光を受け、太陽の光を反射して輝いています。太陽は太陽自体が光の源です。神の栄光とは神の威光であり、神に威信です。
ヨハネ福音書17章1節以下に、主イエスが捕らえられる直前にされた祈りが記されています。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」
4節「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
神の栄光は、イエス・キリストによって、この世に現されました。 神の栄光は、神そのものにあります。そして、今、十字架に向かわれる主イエスは、山の上で、栄光に包まれ、神の子であることが確認されています。
私たちが、礼拝をささげるのは、価値あるものを価値あるものとすることです。神の栄光を讃え、心から賛美したいと思います。
〔2008年2月3日 大斎節前主日(A) 桑名エピファニー教会〕