イエスとサマリアの女

2008年02月24日
ヨハネ福音書4章5節〜26節、39節〜42節 1 サマリアの女  今、読みました「イエスさまとサマリアの女」の物語には、いくつものテーマが含まれています。  地中海の東海岸に沿って、パレスチナと言われる三日月型をした地域があります。イエスは、その地域で活動しました。イエスさまの時代、この地域は、北から順に言うと、ガリラヤ、サマリア、ユダという3つの地域に分かれていました。日本でいうと、関東、中部、関西というような感じでしょうか。歴史的には、その全部をユダヤと言ったのですが、ところがイエスさまの時代には、その地域に住む人たちの間には、大きな差別意識がありました。  主イエスが生まれるちょうど千年昔、ダビデ王が、王の位につきました。その子どもがソロモン王、このダビデ、ソロモンの時代は、ユダヤの国も繁栄したのですが、ソロモンの子どもたちの中で、王位をめぐって争いがあり、レハベアムは、南のユダ地方の王になり、ヤラベアムは北のイスラエルの王となって、ダビデ王国は分裂してしまいました。  そのような形で分裂したまま王国は、次々と王が替わっていったのですが、紀元前、722年、東の方から攻めてきたアッシリアという国に北のイスラエルが敗れ、北の王国の都サマリヤは滅ぼされてしまいました。 アッシリアの王シャルマネセル5世の政策で、この北のイスラエル一帯に異民族を住まわせ、さらにアッシリアの神として偶像崇拝を強制しました。民族意識の強いイスラエル民族にとって、他国人、他民族との結婚や、偶像を造って拝むなどということは屈辱的なことでした。  エルサレムを中心に王国を保っている、南のユダの人々から見ると、もはや、同じ先祖を持つアブラハムの子孫とも思えない、憎しみと反発が起こりました。  ところが、紀元前600年代に入って、バビロニアという国が興り、アッシリアは滅ぼされてしまいます。バビロニアは、南のユダにも攻め入り、紀元前597年には、エルサレムが占領され、587年には、エルサレムは神殿も宮殿も、町中が破壊されてしまいました。そればかりでなく、エルサレムのおもだった人たちはバビロニアに連れて行かれました。「バビロニア捕囚」と言います。 さらに50年ほど経った紀元前559年に、ペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼし、その一帯を征服し、クロス王は、捕囚となっているエルサレムの人々を解放しました。紀元前538年、ユダヤ人たちはエルサレムに帰りました。そして、そこで帰還した人たちが第一にしたことは、破壊されたエルサレムの神殿を復興することでした。この時にサマリア人たちが協力を申し出ましたが、ユダヤ人は、自分たちの宗教の純粋性を守るために、このサマリア人の申し入れを拒否しました。そのためにユダヤ人とサマリア人の間に、いやすことのできない憎悪の念を持ち続け(エズ4:7−23)、同じユダヤ民族でありながら、反目と差別が続いていました。さらに、サマリア人はゲリジム山に神殿を立てて礼拝を守り、ユダヤ人はエルサレムの神殿を守っていました。  長い歴史を語ってしまいましたが、700年も遡って反目し差別しあう、エルサレムを中心とするユダヤ人と、かつて北イスラエルの中心であったサマリヤ人との間の歴史的な背景と社会的な状況をまず知って頂きたいと思います。  主イエスと「サマリアの女」の会話に目を留めてみたいと思います。  イエスと弟子たちは、ユダヤからガリラヤへ行かれる旅をしている途中、サマリア地方を通らねばなりませんでした。  シカルというサマリアの町に来たとき、ちょうどお昼ごろでしたが、旅に疲れて、「ヤコブの井戸」のそばに座っておられました。弟子たちは食べ物を買うために町に行き、主イエスはひとりでした。  このヤコブの井戸は、この町の共同の井戸でしたから、そこへ、ひとりのサマリアの女の人が、水を汲みにきました。  イエスは、この女の人に、  「水を飲ませてください」 と言われました。 2 かみ合わないイエスとサマリアの女の会話  突然、見知らぬ男性からこのように声をかけられ、よく見ると、この人はユダヤ人のようでしたから、びっくりして、この女の人は言いました。  「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女であるこの私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と言いました。  今、長い歴史を振り返りましたように、ユダヤ人はサマリア人と反目し、差別している。当時は男女差別もありましたから、めったに見知らぬ人と話をするなどということはできません。びっくりしました。  すると、主イエスは言われました。  「もし、あなたが、神さまが下さる賜物、すなわち恵みというものをを知っていれば、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼むでしょう。その人は、あなたに生きた水を与えるでしょう。」  それは、「あなたは、わたしが誰かということがわかっていれば、あなたの方から『生きた水』をくださいと言うに違いない」ということでした。  もちろん、この女の人には、主イエスが誰だかわかっていません。  そこで、女の人は言いました。  「主よ、あなたは汲む物をお持ちではないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」  それは、「わたしがあなたに水をくださいと言っても、どうして、この水を汲むことができるのですか。あなたは井戸から水を汲むものもを持っていないではありませんか。この井戸は、わたしたちの先祖アブラハムが、イサクが、ヤコブが、この井戸を掘って、わたしたちに与えてくれたのです。わたしたちは、何千年もこの井戸を頼りに、わたしたちも、家畜も、この水を飲んで生きてきたのです。これこそ、わたしたちの命の水です。あなたは、この井戸の水以外に他の水を与えることができるというのなら、わたしたちの偉大な先祖であるアブラハムやイサクやヤコブよりもあなたは偉いとでも言うのですか」という意味でした。  さらに、主イエスは言われました。  「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  それを聞くと、女の人はいいました。  「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」  生活のために水を運ぶのは、女性の仕事でした。毎日の大変な重労働でした。もし、飲んでも飲んでも渇くことがないような水、その人の内に湧き出てくるような、永遠の命に至るような水、そんな便利な水があれば、その水を、ぜひ、私にくださいといいました。  ここで、主イエスとこの女の人は、水について問答し、対話をしているのですが、これを聞いていて、気づくことは、この2人の会話は、水について問答していながら、話がぜんぜん噛み合っていないことに気づきます。話がすれ違っていて、噛み合っていないのです。  それは、同じように、水のことを言っているのですが、ふたりの水に対する思いの次元が違っているのです。  主イエスは、神が与える水、永遠の命に至る水、言いかえると、救いを得るために飲むべき水、心をいやす、魂をいやす水を得ることが何よりも大事であると言っています。  これに対して、このサマリアの女が言っている水は、ヤコブの井戸からくみ上げる水、具体的な目に見える水のことしか考えられないのです。その水は、先祖伝来の井戸からくみ上げる水であり、飲んで喉を潤す水であり、時間が経つと、また喉が渇く水のことなのです。言いかえれば肉体の欲望を満たす水のことなのです。  主イエスが与えようとする水は、そのような肉体を潤すような水ではなく、心を養い、魂を潤す、神が与えようとする永遠の命、救い、まず、そういうものがあることを知り、これを求めなさいと、水にたとえながら、この女の人にそのことを教えようとしておられるのです。 3 「あなたの夫をここに呼んできなさい」  そして、イエスは、突然、話題を離れて、おかしな命令を投げかけました。  「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と。  主イエスとこの女の人は、初対面です。考え方によっては何て失礼なことを言うのというような命令です。  女の人は言いました。  「わたしには夫はいません」  そうすると、主イエスは言われました。  「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今、連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」  これを聞いて、女は言いました。  「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で、サマリヤのゲリジム山に祭壇を築いて礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と。  歯がゆいような、すれ違いの会話を交わしたあと、突然、主イエスは、この女の人の、個人的な誰からも触れられたくない、しかし、いちばん重要な問題に矢を向けました。ここをぐさっと突き刺しておられます。  多分、この女の人は、周りの人々から「身持ちの悪い女」とか、「男運の悪い女」とか言われていたのではないでしょうか。今までに5人の夫がいたということは、5回結婚をしたということです。しかし、何らかの事情があって、5人の夫とは、死に別れたか、離婚したか、いずれも幸せな家庭生活を続けることができませんでした。今も連れ添っている人がいます、しかしその人は正式の夫ではありません。  誰よりも結婚生活、家庭生活に幸せを強く求めてきた人のように思います。その度に、精神的にも、経済的にも、社会的にも、大きな苦しみを背負い、耐えてきたに違いありません。「なぜ、わたしはこんなに不幸なのだろう」と、思い悩んでいたに違いありません。  イエスは、この人の抱えている、もっとも大きな問題、誰にも言えないような重荷を言い当て、それをまっすぐに見据えたのです。  「あなたは、救われたいのでしょう」と。  この瞬間に、イエスとこの女の人との対話の焦点が合いました。  主イエスが、与えようとするものと、この女の人が、求めようとするものとが、ぴたっと一致したという感じがします。  さらに、その次に、何が起こったのでしょうか。  この女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。  イエスに向かって、信仰の告白をしたのでした。そして、サマリア人とユダヤ人の間で、いちばん問題になっている「礼拝する場所」のことを語り始めました。そして、最後に、女の人は言いました。  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」  そして、イエスは言われました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 「わたしがメシヤだ」「わたしがキリストなのだ」と。 4 生きざまが問われる。  このサマリアの女の人とイエスの対話を、私たち自身に当てはめてみるとどうでしょうか。  第1に、神が与えようとするものと、わたしたちが求めるものとがすれ違っているというようなことはないでしょうか。どんなに一生懸命だ、熱心に求めていると言っても、そこがすれ違っていれば、ピントが合っていなければ、信仰による喜び、救いというものを実感することがありません。どうでしょうか。  第2に、私たちにとって、信仰を持って生きるということは、どういうことなのでしょうか。生きる上でもっとも重要なこととかかわっているでしょうか。命にかかわっているでしょうか。「信仰」とか「宗教」とか言っているものが、ネックレスや指輪やイヤリングのように、単に身につけるアクセサリー程度のもの、着けたり外したりできるような、うわべの飾りになっていないでしょうか。  私たちが信仰をもって生きるということは、私たちの魂の問題なのです。どんな生き方をするかが問われ、これに応えていく生き方なのです。都合の悪い時には、取り外したり、付け替えたりできるものではないのです。神の言葉を、自分の好みに合わせて適当に味付けして、それが信仰だと思っているようなことはないでしょうか。神に向かってさえ、格好をつけている。良い格好をしている。裸の自分を神の前に曝しているでしょうか。うめき声、叫び声を上げつつ、必死に生きていこうとすることとつながっているでしょうか。  第3に、私たちの救いは、キリストにのみあります。あなたこそ主です。あなたこそ神の子です。あなたこそ救いです。キリストへの信頼、キリストへの忠誠心。これしかないのです。私たちは、日々、信仰告白を迫られています。私たちが、ほんとうにキリストと出会うとき、信仰の告白となり、感謝とさんびに満たされるのです。  サマリアの女が、主イエスに出会い、差別や反目のある人間関係の向こうにある、さらに心の深いところに抱えている問題と向き合い、信仰の告白にいたるこの聖書の物語をもう一度読み返していただきたいと思います。   〔2008年2月24日 大斎節第3主日(A年)説教 下鴨基督教会〕