あの方は、ここにはおられない。

2008年03月29日
マタイ28:1−10  「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」(マタイ28:5,6)   イースターおめでとうございます。皆様とご一緒に主イエスの御復活を記念し、感謝と賛美の祭を共に出来ますことを、心から感謝し、とっても嬉しい気持ちです。  さて、キリスト教の一番大事な祝日、大きなお祭りは、「クリスマス」と「イースター」です。クリスマスは、主イエスがお生まれになったことを記念する日です。そして、イースターは、主イエスが十字架につけられ、3日目によみがえられたことを記念する日です。  クリスマスとイースターと、どちらが大事な祝日なのかというと、どちらも大事なお祭りの日なのですが、歴史的には、イースターの方が古くから守られ、教会としては、最も大切な出来事として、この日が守られてきました。  それでは、何が起こったのでしょうか。よみがえりの瞬間を見た者はいません。  一週の初めの日、マグダラのマリアともうひとりのマリアは、墓を見に行きました。横穴式の墓の入口に置いてあった石がわきに転がされていて、白い衣を着た天使がいて、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と言いました。  婦人達が見たのは、空っぽのお墓でした。婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、主イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏しました。  主イエスは言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」婦人たちは、よみがえった主イエスにお会いしました。婦人たちは弟子たちに報せ、弟子たちも驚き走って来ました。弟子たちが見たもの、そこで、弟子たちが見たものは、やはり空っぽになったお墓とそこに残されていた白布だけでした。  聖書によりますと、よみがった主イエスは、たびたび弟子たちに現れ、時間が経つとともに、人々は、それを聞いて信じ、主イエスの復活が受け入れられていきました。   「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(6:4-6) スエーデンの文学の巨匠ペール・ラーゲルクヴィストが1950年に書いた「バラバ」という小説があります。(岩波文庫赤757-1、1974年) ラーゲルクヴィストは、この作品によって1951年にノーベル文学賞を受けました。  バラバとはどんな人だったのでしょうか。マルコ福音書には、「暴動のとき、人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」とあります(15:7)。  バラバは、暴動、殺人、強盗を働いた評判の囚人で、牢獄に長くつながれていた男でした。いわば、いつ死刑にされても不思議ではない悪の限りをつくした極悪非道の、自他共に認める罪人でありました。  バラバは、人を人とも思わない男でした。何人もの人を殺したとんでもない男でしたが、自分の死が近づくと怖くて仕方がない、恐怖と不安の中で、牢獄に繋がれ処刑される日がくるのを待つ身でした。  ところが、ある日、牢獄の扉が開いて、「お前は釈放だ」と言って、突然、解放されました。バラバは、何にも意味がわからないままに、町に放り出されました。人々が一つの方向に向かって走っていくのに出会います。その人だかりの中に、一人の男が十字架を担いで倒れながら歩かされているのを見ます。他の群衆と一緒についていくと、ゴルゴタの丘という死刑場につき、そこで、3本の十字架が立てられ、3人の男がはりつけになり、ぶらさがっていました。毒づいている両側の男たちには見覚えがあります。  しかし、バラバは、真ん中にぶら下がっている一番弱々しくぶざまな姿の男のことが気になってしかたがありません。隠れるようにして遠くから眺めていました。  そして、十字架につけられたその男は、ついに息絶え、お墓に運ばれていきました。バラバは、みんなが立ち去ったあと、エルサレムの街に帰りました。  自由の身になって初めて酒場に入り、隅の方に座っていると、昨日から今日にかけて起こった出来事を、酒場の連中がわいわいと話し合っています。そこで、あの十字架につけられていた一番ぶざまな男について噂を聞きました。  ローマの総督ピラトが、「バラバか、ナザレのイエスか」と問い、群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫び、自分の身代わりになってあの男が十字架につけられたのだということも知りました。その後も、イエスというあの男のことが気になって仕方がありません。何も手につかない。昔の仲間とも一緒になれない。そんな毎日を過ごしていました。  その後、昔の仲間のところに戻るのですが、事件に巻き込まれ、さらに、鉱山で働く奴隷にされてしまいます。地下の暗いところで、2人ずつ鎖でつながれて、朝から晩までむち打たれ、働かされます。生きながら地獄を見るような生き方をさせられました。その時に鎖でつながれ相棒にされたのは、アルメニア人の奴隷サハクという男でした。 否応なく24時間一緒にいなければなりません。働かされている時も、寝ている時も、いつも一緒のこの男から、あのゴルゴタの丘で十字架につけられていた男のことを聞きました。  サハクは、その男のことをイエスだと言い、キリストと言い、神の子だと言いました。サハクはキリスト信者だと言いました。バラバも十字架につけられたその男を見たと話しました。そしてサハクの首にかかっていた奴隷鑑札に彫りつけてあった、同じ記号を自分の鑑札にも彫ってもらいました。それは、「神の奴隷」という意味でした。バラバはサハクから、さまざまな不思議なことが起こったことを教えてもらい、さらに共に祈ることも教えてもらいました。  バラバとサハクは、さらに農耕奴隷として売られ、さらに製粉小屋で働かされ、ローマ人の総督の家に買い取られていきました。そこでサハクは、キリスト信者であることが知れてしまい、問いつめらます。サハクは、自分は神の奴隷だといい、神を棄てることはできないと言い張り、拷問にかけられた上、十字架に磔にされて処刑されてしまいました。  バラバは、そんな神など信じないと言い逃れて難をさけ、助かりましたが、さらにローマに送られました。それから何十年も経ちました。バラバも歳を取り、ローマで、家奴隷として生活していました。  ある日のこと、夜中に、人が走る物音を聞き、「クリスチャンが、ローマの街に火をつけた」「クリスチャンが暴動を起こした」と叫ぶ声が聞こえました。ローマの街のあちこちから火の手が上がるのを見ました。  バラバは、かつてサハクから、キリストは再び来られる。この世の裁きのために来られると教えられたことを思い出し、あのゴルゴタの男が戻って来たのだ、約束通り人を救うためにもどって来たのだ、世界を滅ぼすために、今こそ力を示すために来たのだと思いこみ、何とかして、あの人の手助けをしなければとばかりに駆け出しました。  もう年老いた奴隷バラバでしたが、若い頃、盗賊、暴徒の頭だったバラバは敏捷でした。一番近い火事場に飛び込み燃え木を取り、まだ燃えていない家に火をつけてまわりました。  あの無様な格好で十字架にぶら下がっていたあの方のために、何とか役に立ちたいと思い走り回りました。  そのために、火付けの現行犯として捕らえられ、他に捕らえられたクリスチャンと一緒に再び牢に入れられます。クリスチャンたちは、誰一人火をつけていないと言い張りました。しかし、バラバは油倉に火をつけているところを見つけられて捕らえられ、そして、今度は、バラバ自身は、自分はクリスチャンだと言い張ってききませんでした。  クリスチャンたちは次々と磔にされて殺されていきました。そして、バラバもいちばん最後に引き出され、十字架の列のいちばん端に、一人、磔にされました。  夕方になり、暗くなって見物人も立ち去ってしまった後、バラバはまだ生きてぶら下がっていました。死というものをあれほど怖れていたのに、死が近いと感じた今、「自分に代わって死んだあの男のために働いたと思う何ともいえない満足感につつまれていました。」  静に彼は暗闇の中へ話しかけるように言いました。  「おまえさんに委せるよ、おれの魂を。」 そして、彼は息を引き取りました。  これは、ラーゲルクヴィストという作家の創作です。  バラバは、主イエスが身代わりになって、死刑を免れ、解放された時、命は長らえましたが、それは、ほんとうの「救い」だったのでしょうか。しかし、彼を待っていたのは、もっともっと大きな苦難でした。  キリストのことを教えられても、これを否定し、反抗し、悶々として過ごし、最後には鎖でサハクにつながれました。このサハクこそ、キリストご自身ではなかったかと思います。  そして、最後に、怖れていた死を、目の前にしながら、すべてを、魂を、あの十字架の上にぶざまにぶら下がったあの方に委ねたのでした。  ほんとうの救いとは何か、この作品は多くのことを考えさせてくれます。  私こそバラバであり、私こそ十字架につけられるべき罪人です。しかし、この私に代わって、身代わりになって、あの方が十字架につけられたのです。私たちもあの方のことが気になってしようがない。そして、よみがえったあの方は、今、私に寄り添い、太い鎖に繋がって、共にいてくださいます。バラバにつながれたサハクのように。  それでもなお、見当外れのことばかりしているかもしれません。ピントはずれの生活をしているかも知れません。しかし、あの方に喜んでもらおうと、一生懸命生きています。生きている時も、死を迎える時も、  「あなたに、すべてをゆだねます」と、心から言えるように。 主のご復活を記念することは、空っぽのお墓の前に、じっとたたずんでいることではありません。  聖パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、このように言います。 「キリストが、父である神の栄光によって死者の中から復活させられたのは、わたしたちも新しい命に生きるためです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(6:4-6)       〔2008年3月23日 復活日(A) 新宮聖公会 〕