まことの羊飼いであり、羊の門である主

2008年04月13日
ヨハネ福音書10章1節〜10節  ヨハネによる福音書では、イエスさまは、たびたびご自分のことを、「わたしは、なになにである」と言って、何かにたとえてご自分のことを紹介しておられます。 「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12) 「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:48) 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(15:5) 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない。」(14:6) 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(11:25)  このように、イエスさまは、なんとかして人々にご自分のことを知ってもらおうとして、いろいろなものにご自分をたとえ、またご自分と私たちの関係についてわからせようとしておられます。  今日の福音書でも、「わたしは羊の門である」と言い、「わたしは門である」と語っておられます。さらに11節には「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とも言われます。  聖書の舞台になっているパラスチナ地方は、麦やぶどうなどを耕作する農作業も行われいましたが、多くは牧畜を職業としていました。かつてイスラエル民族の先祖は遊牧民族で、牧畜を生業としていました。  今でも羊や山羊や牛が飼われ、羊飼いが羊の群れを率いて移動している姿をよく見かけます。  羊飼いは、羊の所有者であるご主人から羊の飼育を頼まれ、責任を持って羊の群れを育て、ある程度大きくなると羊を引き渡します。羊の所有者が直接羊を飼っている場合もありますが、多くは任された羊を飼う雇われ労働者でした。  羊飼いは、朝になると、主人の羊をその囲いから連れ出して、牧草のある場所に連れていき、また、水場に連れていって水を飲ませ、運動させて、夕方になると主人の家の囲いに連れて帰ります。  また、羊を安全な場所に隠し、野宿をし、夜通し羊の番をするということもあります。  羊飼いは、羊の群れを移動させる時には、羊の群れの先頭に立って歩きます。牛を飼う者は「牛を追う」と言って、牛の群れの後ろから歩くそうですが、羊飼いは、羊の群れの先に立って移動します。木陰などない熱い荒れ野を歩く羊たちは、前の羊の陰に頭を突っ込むような形で、くっつき合って、羊たちは、その後ろから、黙々とついて歩きます。  イエスさまの話を聞いている弟子たちや他のユダヤ人たちは、ふつうの生活の中で、そのような羊の群れとこれを飼う羊飼いの姿は、よく見て知っている風景であります。そのような、身近な出来事、すなわち羊が囲いの中で飼われている時、羊飼いが群れを連れて移動している時、誰でも見慣れてよく知っている日常の生活から「たとえ」を取り上げて、お話になりました。  先ず、第1の部分ですが、1節から6節まででは、次のようなことが書かれています。  羊がいる囲いの中に入る人には、2つのタイプがあります。  1つのタイプは、門を通らないでほかの所を乗り越えて入ってくる人たちです。それは、羊泥棒であり、強盗です。  2つ目のタイプは、その人のために門番が門を開き、門から入ってくる人です。それは羊飼いです。ご主人からちゃんと雇われ、信頼され、責任を負っている羊飼いです。  この羊飼いは、門から入って、羊のところへ行きます。羊飼いは羊たちに声をかけ呼びかけます。羊たちは羊飼いの声をちゃんと聞き分けます。その羊飼いは、自分の羊の名を呼んで、羊の柵からこれを連れ出します。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って野原に出て行きます。羊は、羊飼いの声を知っているので、この羊飼いの後について行きます。しかし、羊は、ほかの者には決してついて行かず、無理に捕まえようとすると逃げ去ります。それは、ほかの人たちの声を知らないからです。  このイエスさまのたとえは、私たちに何を知らせようとしているのでしょうか。イエスさまは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らには、それが何の話のことかわからなかったと記されています(10:19)。  数年前のことだったと思います。神学校の新学期前の合宿オリエンテーションがありました。私も参加したのですが、そのプログラムの1つのセッションで、「聖書のみ言葉の分かち合い」をするという時間がありました。  そのテーマとして、取り上げられたのが、この今日のヨハネによる福音書10章のこの個所でした。  みんなで、何回も輪読して、一人一人が黙想して、そして、グループに別れて、それぞれが感じたことを話し合いました。  その中で、私が属したグループの中の一人の神学生、その年に入学した人ですが、このように言いました。  「羊飼いはイエスさまだと思います。そして、私は、囲いの中の羊です。イエスさまは、私の名を呼んで私を連れ出されました。だから、私は神学校へ来て、ここにいるのです。今の自分には、そのようにしか考えられません。」  すばらしい解釈だと思いました。聖書の言葉が立ち上がって、語りかける、イエスさまと自分とにスポットライトが当たって、浮かび上がってくるような解釈です。多分、その神学生には、ほかの人の声は聞こえていないのでしょう。イエスさまの声を一生懸命聞き分けようとしているのだと思いました。そのような思いを生涯持ち続けてもらいたいと思いました。  このことは、聖職者をめざす神学生だけではないと思います。  私たちは洗礼を受けました。その時に、教名、洗礼名をつけられました。それは、イエスさまによってつけられた名前です。イエスさまのものとされたというしるしです。  「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」  私たちは、毎日、イエスさまによって、その名を呼ばれているのです。私たちは、毎日、毎日、イエスさまによって呼び出され、連れ出されているのです。  私たちは、その声をちゃんと覚えているでしょうか。赤ちゃんがお母さんの声を覚えていて、聞き分けることができるように、私たちもイエスさまの呼ぶ声を聞き分けられているでしょうか。ある時にはその声が遠くなったり、小さくなったり、またその声を忘れてしまって分からなくなってしまっていることはないでしょうか。  反対に、盗人や強盗の誘いかける声ばかりが聞こえて、そちらにばかり気が取られて、ほんとうの羊飼いの声が聞こえなくなってしまっていることはないでしょうか。  私たちは、ほんとうの羊飼いについて行く羊でしょうか。立ち上がって、歩いているでしょうか。従って歩こうとしているでしょうか。  第2の部分、7節〜10節についても考えたいと思います。  ここでは、イエスさまは、「わたしは羊の門である」、「わたしは門である」と言っておられます。この門という言葉は、戸、門、入口というような意味で、羊を囲っている柵の戸、入口です。「羊の門」という言葉は、「羊への門」とか「羊のための門」とかいう意味があります。  「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」とイエスさまは言われます。この言葉を裏返すと「わたしという門を通らない者は救われない」「これを通らなければ救われない」という、非常に一方的というか、排他的な言葉です。  「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を観るかも」 という古い歌があります。山の頂上に登って月を観ようとします。麓からその山に登っていく道がたくさんあります。東からも、西からも、北からも南からも、登山口があって、その道は曲がりくねってはいますが、どれも頂上につながっています。どの道から登っても行き着く頂上は一つで、そこから眺める「月」は同じだという意味です。  世の中に、宗教はたくさんあるけれども、結局、教えていることはどれもみな同じで、どれもこれもよく似たものだというような意味でこの歌がよく使われます。典型的な日本人的な宗教観を表している歌だということができます。  若い頃、ある人の家に招かれたことがありました。会社の社長さんをしていて、立派な応接室に通されましたが、その応接室の壁という壁に、さまざまな宗教の教えや教典を写したものや、思想家、哲学者の名言が、額に入れられています。掛け軸になったのもあります。四方の壁、壁という壁に、そのような額がぎっしり掲げられています。般若心経もあれば、主の祈りもある。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も天理教も生長の家も、ソクラテスの言葉も、みんな一緒にずらっと並べてありました。その社長さんは言いました。  「わたしは、この年まで、ずいぶんいろいろな宗教の門をたたき、訪ねました。しかし、結局、どの宗教もみんな一緒ですな。そのことを悟って、わたしは、こうしてみんな掲げていますねん」と。  わたしは、この人は、宗教に一生懸命何かを求めながら、結局、何も得られていない人だと思いました。  宗教を持つ、信仰に生きるということは、宗教と宗教を比較して、何かを比較して自分で選んだり捨てたりして、善し悪しで決められるものではないからです。自分が信じるべき対象を選ぶのではなく、目に見えない大きな力によって、選ばれている自分を知って、はじめて信仰の喜びというものを体で感じることができるのです。そして、唯一の自分の宗教、自分の信仰というものをしっかりと持っていて、はじめて他の宗教を理解し、他の宗教や教派の信仰を持っている人のことを理解し、尊敬することができるものだと思います。  イエスさまの教えは、門は、あっちにもこっちにもあって、どの門から入っても同じだよといっておられるのではありません。  イエスさまは、わたしという門を通ってはじめて、神さまのもとに行くことができる。神を知ることができる。わたしを通ってしか救いはないと言い切られます。そこには、あれかこれかはありません。あいまいさを許されません。わたしだけを信頼するかしないか、わたしに従うか従わないかと、いつもわたしたちに迫っておられるのです。  「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10:10)  私たちが、この方にすべてをゆだね、全身全霊をもって、この方に従おうとするとき、私たちが自分の方から想像したり、予想したものをはるかに越えた恵みが、喜びが、命と力が注ぎ込まれます。神さまの方から溢れるばかりに注いでくださるのです。  イエスさまは、羊の門です。イエスさまは、門です。しかし、その門は狭い門です。「良い羊飼い」であるイエスさまを見失わないように、ぴったりとついて行きたいと思います。 〔2008年4月13日 復活節第4主日(A)説教 下鴨基督教会〕